インタービューを受けている石井敏郎さん 1965年、石井敏郎さんは第1回日中友好青年代表団の一員として、北京・上海を訪れました。代表団には、各界を代表する日本の若者500人が参加していました。当時の要人たち、毛沢東主席や周恩来首相、陳毅氏、鄧小平氏と対面して、すごく感激したそうです。それ以来、石井さんは、日中友好人士として努力してきました。
青年代表団に参加したことがきっかけで、石井さんは1975年から、北京で働くチャンスを得ます。中国文部省直属の出版局で、4年間、外国向けの出版物発行に携わっていたそうです。
実は、中国国際放送局にもちょくちょく顔を出していらっしゃったそうです。石井さんはもともと俳優の仕事をされていたこともあり、国際放送局のアナウンサーに指導していたとか。当時を振り返って、石井さんは「大晦日の紅白歌合戦の時、いわゆるラジオドラマみたいなものをやって、アナウンサーの皆さんが俳優になって、短いドラマをやったりしました。本当に楽しかったです」と述べました。
1979年に帰国した石井さんは、4年間の北京での経験を活かして、埼玉県の民間団体・日中友好加須(かぞ)市民会議に参加しました。1977年に設立された団体で、石井さんも帰国後、この団体を通じてさまざまな交流事業に関わってきました。
実は加須市のある埼玉県は、山西省と友好関係を結んでいます。それで、加須市民会議でも、とりわけ山西省との交流に力を入れてきたそうです。山西省は黄土高原に位置する美しい場所ですが、内陸部ということで、経済発展から取り残された貧困地域もあります。そこで、加須市民会議では、10年程前、山西省の貧困地域に小学校を建設する寄付活動を行ったのです。それが縁で、5年前からは、双方の子ども達による相互訪問も始まっていました。
実は今回、石井さんが中国へいらっしゃったのも、加須市の中学生を率いて、中国の山西省を訪問するためだったのです。代表団は、山西省を観光してまわったのはもちろん、ホームステイをして、普通の民家で生活しながら人々と交流したのだそうです。今回は、石井さんが団長をつとめる16人の団体だったそうで、7月23日から30日まで、アットホームな旅となったようです。
今回の訪問で、学生たちはいい思い出をたくさん作ったようです。
~ウスキショウコさん(中学2年生)のインタビュー~
Q:中国に来る前、中国に対する印象はどうでしたか?
A私はサッカーが好きでよく試合を見てるんですけど、以前、中国対日本戦の時に、ちょ っといざこざがあって。それから、中国はあまりきれいじゃないという話も聞きました。イメージは最悪でした。
Q:今はどうでしょうか?
A:町も結構きれいだったし、人も日本に対して冷たいと思ったらすごくやさしい 人ばかりで、あんなひどいイメージを持っていた私が恥ずかしくなったぐらい。中国はいいところだなあと思いました。
~オオヅカユリさん(中学2年生)のインタビュー~
Q:どうして、今回の活動に参加したのですか?
A:自分の世界を広げたいと思ったから。中国の人たちとも仲良くなりたいと思って来ました。
Q:中国に来てどう感じましたか?
A:みんな優しくして、「ニーハオ」と声をかけると、「ニーハオ」って元気な声で挨拶を交わしてくれて、と てもうれしかったです。
うちに帰ったら、中国はいいところだったと、みんなに伝えたい。またみんなと一緒に中国を訪れたいと思います。
中日交流事業というと、大人同士の交流は各分野で盛んに行われていますが、子供同士の交流はまだまだ少ないと思います。これから、このような機会が増えていけばいいと思いました。石井さんは、「日中友好は草の根の人民交流から、というのが狙いでしたね。1人1人の力は小さいですけれども、とにかく一生懸命やることで、ジワーッと日中友好の気分が続いていくのはいいことだと思います。今回は中学生の交流で、たった一週間と短かったですが、子ども達は本当に喜んで、目を輝かせて、張り切っていた。私たちの後継者ですね。がんばっていってくれたらなあ、と」
日中友好加須市民会議でも、こうした若い世代の交流をバックアップしていきたいという考えで、今回の中国訪問以外にも、毎年東京近辺に住んでいる中国人留学生を2泊3日のホームステイに招待するなど、さまざまな取り組みを行っているのだそうです。いま、中日関係がギクシャクしている中で、民間交流の重要性が改めて叫ばれていますが、こんな時代だからこそ、石井さんが取り組んでこられたことには、学ぶべき点が多いように思います。
石井さんは、70歳を過ぎていますが、年齢を感じさせないはつらつとした方です。加須市民会議は資金不足やメンバーの高年齢化など、さまざまな問題を抱えているそうですが、「困難を乗り越えて、ますます頑張っていきたい」と笑顔で答えてくださったのが印象的でした。
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