美術で人を癒し、日中友好の掛け橋になりたい!!
張瑜、日本名:相澤友子。1956年7月24日生まれ。1980年上海外国語大学分校日本語学部卒。86年来日。89年産能大学経営学部卒。89年画廊に就職、海外事業部部長、中国部部長に就任。94年(株)聚友国際交流設立。95年北京で「漢方州」設立、副社長に就任。03年中国平和友好発展基金会「聚友中日友好交流基金」設立、副理事長に就任。05年NPO法人聚友日中友好交流促進協会設立、理事長に就任。
張瑜氏は、銀座で画廊を経営する在日中国人の女性企業家。12年以上に渡り日中の間で絵画が持つ不思議な縁を取り持って来た。今回は張氏の日中友好にかける思いを聞いた。
取材に当たったのは、張国清・北京放送東京支局長です。この取材内容は日本東方通信社の編纂による週間雑誌「コロンブス」2005年5月号に掲載されています。
張国清:張瑜氏が来日した86年当時、日本に来る中国人はまだ少なかったですよね。それまでの仕事を辞めてまで、来日したそうですが、よほど日本で仕事をしたかったのですか。
張瑜:実は、それほど大きな理由はなかったのです。ただせっかく日本語を勉強したので、日本のことをもっと知りたかったのは確かです。また、何かはっきりとした目標があった訳ではありませんが、日本に来ることで人生に変化を与えたいとも思っていました。
それまでにも海外に出るチャンスはありました。少し振り返ってお話をしますと、私は高校卒業後すぐに上海の工場に配属されました。その後、努力が認められて、工場の親会社の技術管理者を任されました。加えて、大学で勉強できる機会も与えられたので、74年頃から日本語を勉強し始めました。日本語は、父の友人が早稲田大学を卒業して、日本人女性と結婚していたこともあり、わりと身近だったのです。
そうするうちに日本を含めていくつか海外への話がありましたが、なかなか踏ん切りがつきませんでした。12年後の86年にやっと来日を決めました。当時の中国では、あまり日本にいい印象を持つ人がいませんでした。幼い子供を連れて日本に渡ることを、両親も理解できないという感じでした。
張国清:来日後、大学に入って経営学を専攻されましたが、卒業後は画廊の仕事に就いていますね。絵画とはどのようなかかわりがあったのですか。
張瑜:国語の教師をしていた父の影響です。父は趣味で書画を描いていました。とても教育熱心で、私も幼い頃に絵画を学んだことがありました。その時の1年足らずの絵画の勉強が、私の人生を大きく左右するなどとは思いもよりませんでした。
日本の大学では経営学を学びましたが、ほかの人に差をつけるためには芸術分野を伸ばすことがベストだと思いました。とくに私は、文化事業に興味がありましたので、大手企業よりは小さいところで修行したいと思っていました。すると、たまたま目にした新聞に銀座の画廊が募集をかけていたのです。海外との文化交流のために新しい会社を作るという広告でした。さっそく応募し、運よく受かりました。そこで約4年間勤めました。
張国清:画廊の仕事はどんなものでしたか。
張瑜:画家の育成や個展の開催などです。絵には興味を持っていましたが、ほとんど素人だったので、画家の先生方及び美術館の館長・学芸員やデパートの美術担当の方たちにいろいろと教えていただきました。
私はこの仕事を通して、「日中の芸術交流の掛け橋になりたい」と思っていました。その思いで、在日中国人画家のグループ展や日本の著名画家たちによる故宮での展示会なども開催いたしました。これは日中両国より高い評価を頂きました。私が手掛けた事業は社内でも評価され、入社した翌年には中国部部長に抜擢されました。ただ文化事業は、お金がかかる割に利益が少ないものです。私は積極的に「こうしたら日中友好にもっと貢献できる」と、いろいろと会社に提案を出しましたが、会社はしだいに「ボランティアなら意味がない」という姿勢になっていったのです。
張国清:自分の画廊をもちたいと思ったのは、その頃ですか。
張瑜:そうですね。高い給料をもらい生活は安定していましたが、自分がやりたい仕事はやはりなかなかできず、当時とても生意気だった私は独立することを考えはじめました。
また、健康面の影響もありました。仕事が忙しいこともあって、酷い時には体重が34キロだけでした。通勤中に気を失って病院に運ばれたこともしばしばで、これが決定的になって、93年末に退職しました。
体力が回復してからすぐに起業への準備を始めました。資金集めと友人に役員就任を頼みました。社長は私ですが、他の役員はすべて日本人で、当時としてはとても珍しいケースでしょう。みんなは中国のことが好きで、経験も豊富です。彼らの助けで、94年2月に株式会社聚友国際交流を設立しました。
張国清 独立されてからはどんな事業を手掛けましたか。
張瑜:才能ある中国の青年画家たちを育成したり、日中の美術団体や画家の交流促進事業も展開してきました。97年に開催した上海芸術博覧会では日本の著名な画家である小倉遊亀、中路融人、岡信孝先生らの作品を展示、日本画の独特な美しさを紹介し、その後も渋澤卿、佐藤多持先生らの個展及び中国現代画家特選展、日中著名政経文化画人展、日中現代女性芸術家特選展などを開催しました。
張国清:94年に設立して、もう12年になりますが、今まで順調にやってこられましたか。
張瑜:理想と現実の距離はかなり大きいですね。日中友好につながるイベントを年に1回以上やるように決心して実行して来ましたが、それをすると1年間稼いだお金がほとんど飛んでしまいます(笑)
それを救ってくれたのは、たまたま始めた健康食品のサイドビジネスでした。
張国清:北京で、「漢方州」という会社を設立していますが、健康食品に関する業務を展開しているのですか。
張瑜:そうです。もともと中国の漢方協会とは長いお付き合いで、北京の高級ホテルにある対外国人診療所を開業していました。予防医学の研究で足の裏に漢方を塗るという方法で半病人が少なくなるという結果から、95年に設立しました。今は、直接経営にはタッチしていませんが、経営方針や医学的なアイデアは出しています。私のアイデアでできた製品は医薬品と認められ、今は商品化されています。「漢方州」及びその製品はブランドとして中国で全国展開しています。
張国清:この他に「NPO法人聚友中日友好交流促進協会」も立ち上げていますね。
張瑜:私は、美術から多くのことを教えてもらいました。形、色彩ひとつで人の心境が変われるし、時には励ましてくれます。美術は漢方薬と同じく人を元気にしてくれる効果があると信じています。ですが、皆に元気になってもらいたいと思っても、会社の形でできない事もあります。それで、03年の日中国交正常化30周年のときに、中国平和友好発展基金会の下に日中交流特別基金を設立後、05年にNPO法人を設立しました。ボランティア活動を通して、皆様に幸せを届けたいです。
張国清:今後の抱負をお聞かせください。
張瑜:すでに今年の8月16日から19日に、東京ビッグサイトで「東京国際芸術博覧会」開催を決定しています。日本と中国を中心に世界各国の著名芸術家の優秀作品を一堂に会する最大規模の国際芸術イベントとして、今は全力を上げて準備をしています。毎年継続開催を予定しており、また、今年は上海にて、08年には北京で精品展を開催する予定です。イタリアのナポリ市長からのお誘いがあり、07年はそちらにしようと考えています。私の目的は、世界の人々がお互いにより文化や美術を理解し、平和に幸せに暮らすことですので、どこの国で開催しても同じです。
芸術は、心を癒す最高のものと確信しています。生活の中に芸術が浸透すれば、人々の心が豊かになります。今後は、「芸術生活・生活芸術」運動を推進していきたいと思っています。
張国清:すばらしいお考えですね。今後の活躍に期待しています。
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