岐阜県美濃加茂市。1956年から北京放送を聞き始め、現在も毎日北京放送を聞いている。1978年10月、初めて中国を訪問。以来十回ほど中国を訪問。1979年1月、北京放送を聞く会に入会。1983年北京放送を初訪問。これまでに北京から送られてきた切り絵や返事のお手紙などを宝物のように保管している。1978年の北京放送のカレンダーもある。
以下は岩田さんのインタビューです。
私が始めて北京放送とであったといいますか、初めて北京放送を聞いたのは1956年の春ごろであったと思います。当時、私は、国鉄に勤務しており、国鉄労働組合の機関紙・国鉄新聞で北京放送という新中国の日本語放送があることを知りました。
何しろ、50年も前のことですので、今では同時のことをはっきりと覚えているわけではありませんが、放送時間は確かに毎晩7時から30分であったか、一時間であったかは忘れてしまいましたが、放送内容はニュースのほか、中国物語や中国の歌や音楽などであり、新中国の建設の様子が放送されていました。そして、その頃の中国のスローガンとして、百花斉放、百家争鳴という言葉を耳にしたことがありまして、この百花斉放、百家争鳴とは、自分の頭で考える自由、弁論の自由、創作と批判の自由、自分の意見を発表する自由だと私は理解していましたが、しかし、その頃の日本では、中国関係の情報はとても少なく、新中国の実情を知る上で、北京放送は一つの情報源でした。
その頃の日本では、中国関係の情報はとてもすくなく、新中国の実情を知る上で、北京放送は一つの情報源でもありました。そのころの日本では「歌声は平和の力」を合言葉に、全国的に「歌声運動」が活発になり、各労働組合や地域に「歌声サークル」や「合唱団」が組織され、ロシア民謡や中国の歌が数多く歌われるようになりました。中国の歌では、「たたえよ祖国」、「けつまづいてもころんでも」など、解放の歌や労働歌、それに民謡の「草原情歌」などでした。日本の歌では日中友好の歌として「東京?北京」と言う歌がよく歌われたものでした。
ところで、1966年から文化大革命が始まり、放送内容も大きく変わり、ニュースは文革一色となり、紅衛兵の活動状況や、所謂右派勢力と言われる人たちに対する批判、すなわち「資本主義の道を歩む人を深く突っ込んで批判し」と言う言葉をよく耳にしましたし、「工業は大慶に学び、農業は大塞に学べ」と言うスローガンや、毛沢東語録の一節も放送されていたと思います。反面「中国の物語」のような、文化的な番組は中止となってしまいましたし、音楽番組は革命の歌のような歌や、民族音楽が中心であったように思います。
国交正常化する4ヶ月前ですね。この年、1972年9月に、日中共同声明が調印され、国交が正常化されました。そして、日中新時代を迎え、中止になった中国語講座も1973年の春に再開されましたが、これは、のちに今は亡くなき陳真さんにおききした話ですが、日本と中国の友好を第一に考えておられた周恩来総理の指示があったからこそ再開することができたという話でした。
私は勤務の関係からして、放送を毎晩聞くことができませんでしたが、76年10月に四人組が検挙され、文革がおわると放送内容にも変化が現れてきました。日本の歌も主に民謡であったと思いますが、放送されるようになりましたし、やがてニュース番組などでは四つの現代化建設の様子が伝えられるようになりました。また、新年特別番組の「紅白歌比べ知恵比べ」は1978年が第一回の放送であったと記憶しております。
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