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沖縄の子供達 |
沖縄の美しいビーチ |
二月のある日、私は沖縄の取材で東京から長い空の旅を経て那覇空港に着いた。東京と違い、二月というのに初春を思わせる暖かい天気だった。空港の出口までの長いロビーに置いてある鉢植えの蘭の花がきれいに咲いている。
空港から出て見上げると、広がる空には雲ひとつない晴天だった。空気が美味しい。これは東京では味わえない空気だ。思わず深呼吸して美味しい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
沖縄には鉄道がなく、当然電車もない。移動するには車に頼るしかない。レンタカーをチャーターした。どのレンタカーにもカーナビーが付いていて他所から来た人にとって心強くなる。レンタカーで市内に向かう。道の両側に椰子の木が植えられ、中国の海南島に似た風景だ。市内には東京のような高層ビルがない上、人が少なく、落ち着いている感じ。
ホテルの前には観光バスが停車し観光客が次から次へと下りてくる。この時期の沖縄観光は多分安上がりだろうと思う。そう言えば、来る飛行機の中では満員の状態だったことを思い出す。
沖縄は日本列島の南西方向に当たり、県内の島々の総数は大小合わせて60余りあり、総面積は約2255平方キロ。那覇市は本土の東京から1550キロ離れ、その最西端にある与那国島は中国の台湾省から僅か101キロしか離れていないという。
沖縄は昔琉球と言われ、中国や韓国、東南アジア諸国との交易が早くから始まり、交流も盛んだそうだ。沖縄の歴史年表を見ると、琉球が始めて中国の歴史書に現れたのは紀元600年ごろだった。1372年、当時の琉球王は進貢船を始めて中国の明王朝に派遣し、中山王の称号と暦と船を貰い帰ってきたという。以降、明国との友好関係を長く続けることとなった。その後、多くの中国人が琉球へ来るようになり、久米村(現在の那覇)に住み着くようになった。この中に船を作る技術者もいた。明国は1383年国名を琉球と命名した。1609年に日本の薩摩藩が3000名の軍勢をもって琉球に侵攻し首里城を占拠した。それ以後270年間にわたり琉球王国の表向きは中国の支配下にありながら、内実は薩摩と徳川幕府の従属国であるという微妙な国際関係の中で存続していた。
1871年、日本で廃藩置県が行われ、それに伴い琉球は鹿児島県の管轄下に置かされるようになり、続いて琉球処分が強制的に行われた。清国への朝貢と交流を差し止め、琉球王は東京に住まうこと、首里城は明け渡し、王府は解体することなどがその内容だった。1879年、日本政府は400名の部隊で首里城に乗り込み沖縄県設置を宣言した。3月31日に、時の尚泰王が首里城を明け渡し琉球を離れた。こうして、長い間続いた琉球王国独自の歴史は強制的に幕を閉ざされてしまったということだ。
これは沖縄(琉球王国)の歴史である。沖縄に行く前まではよく分からなかったのだ。
沖縄には、中国料理と似たような料理があり、例えば豚肉の角煮などがそれである。こう言った日本の本土にない独特の料理が観光客から喜ばれている。市場では、豚の足(豚足)や豚の頭なども売り出されている。東京ではあまり見られない風景である。屋根の上には悪を取り除くとされる獅子(shisa)が装飾されている。ここで食べた沖縄ラーメンは、東京のラーメンの味とは違い、安くて美味しい。那覇市のメインストリートである国際通りには、本土から来た修学旅行の生徒や観光客で溢れている。
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