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ポプラが語る日中の物語(60周年特別番組 その二)
   2005-08-24 09:43:28    cri

王:毎年の8月15日は、日本、中国と韓国及び多くのアジアの国にとっては、特別の日です。中国国際放送局   日本語部は、この記念すべき日をテーマに、三回にわたって特別番組をお届けしていますが、今日はその第二弾として、「ポプラが語る日中の物語」をお届けします。今日のスタジオには、特別ゲストとして元文化次官で、いまは中国対外文化交流協会の副会長を勤める劉徳有さんをお招きしました。劉会長は、1964年に第一陣の日本駐在中国人記者として日本にいかれ、その後15年間ほど日本で仕事をされ、日本通として知られています。

 

 王:ところで、今から60年前の1945年8月15日のことを、会長はまだ覚えていらっしゃいますか。

 劉:え、まだ覚えています。日本の敗戦を私は大連で迎えました。その大連というのは、当時日本の植民地で、私はちょうど14歳の年でした。中学の二年生で、その頃勤労奉仕というのがございまして、その一環として、大連の海辺、星が浦というところの近くの山沿いで、チャチな戦車壕が掘らされておりました。8月15日の正午ですけれども、近くの小学校に皆集められて、いわゆる重大ニュースを聞かされました。スピーカーからはがーがーという雑音しか聞こえず、で、工事現場に戻ったところで、お茶汲みに行っていた旧友の口から、日本がポツダム宣言を受諾して、無条件降伏をしたことを初めて知りました。ご承知のように、その頃、日本の植民者は大連でひどい支配をしておりまして、一般の中国の民衆が大変苦しい生活を強いられていましたね。したがって、日本が無条件降伏したということで、私は心の中で快哉を叫んだわけです。しかし、顔には出しませんでした。なぜなら、日本はまだ武装解除されていなかったからです。いやな勤労奉仕はそれで終わって、それから、学校にいくのをやめました。終戦になって、私の気持ちの大きな変化って言えば、日本と日本語に対する私の気持ちですけれども、ただ感情的に日本は戦争には負けたんだ、日本は国が滅びたんだと、これからもう日本語を話さない、いや、むしろ、話してやるもんかそういうような気持ちが強かったですね。しかし、その気持ちはだんだんと変わっていきました。これは非常に幼稚なことだとわかりました。なぜなら、戦後、日本の国民は、やはり生活の改善、民主主義、平和を求めて奮闘しておられることがだんだん分かってきました。それと同時に、やはり、毛沢東主席と周総理が中国の人たちにいろいろ教育してくださったからです。と申しますのは、私はそれまでそういう気持ちを持っていたんですけれども、日本の敗戦後、やはり感情の切り換えというのが必要ですよね。それをきりかえってくれたのは毛主席と周総理です。それはつまり、早くから中国の民衆に対して、広範な日本の国民、それとほんの一握りの軍国主義者、やぱり厳格的に区別してなければいけないことを繰り返し繰り返し、忍耐強く中国の人民にたいして教育したからです。私もその教育を受けて、だんだんと、まあ、正しく日本に対処するのが分かり、50数年前から、対日の仕事、つまり日中友好の仕事に携わるようになりました。

  

 王:そうですか。大変貴重なお話を聞かせていただきました。ありがとうございます。

 劉:いえ、いえ。で、実を言うと、日本の一般国民は中国人と同じで、あの戦争で大きな犠牲を払っています。特に戦争初期、日本政府にそそのかされ、開拓団として中国の東北にやってきた日本人たちは、敗戦に伴い、日本に戻ろうとしても戻れず、結局は中国で多くが死んでしまいました。

 王:それは気の毒ですね。ほんとうに。しかし、これら日本人のために、中国政府は1963年に特別の墓地を作りましたね。この墓地は、開拓団民の最も多かったという黒龍江省のハルビン市に近い方正県にありますね。

 劉:ええ、この墓地の正式な名前は「方正県日本人公墓」と言い、中国で唯一の日本人公墓として、周恩来元首相の配慮の下にその設置が許可されたものです。文化大革命では破壊から免れ、現在でも地元の人々によって保護されています。

 王:実はこの間、私たちはこの公墓を訪れました。公墓を囲んでいるポプラの木の下で、この35年来、両国の人々の往来と友好をについてのストーリーを聞きました。    

 現場:「ここが中国唯一の日本人公墓、方正県日本人公墓です。1995年『中日友好園林』と改名され、ここには公墓のほか、記念館や、平和友好記念碑など九つの建物があります。敷地面積はおよそ1500平方メートルで、中には、木々が茂っており、緑で一杯です。1963年の設置の日に公墓の周りはポプラの樹が植えられ、今では大木となっています。風に吹かれて音を出すポプラの木々は、私たちに何かを語っているようです。

 「公墓まで案内してくれた方正県外事弁公室の王徳君主任は、まず公墓内にある記念物を紹介してくれました。」

 王主任:「東西の軸に沿って建っているはすべてが日本の友好団体によるものです。これは山梨県が建てた中日友好往来記念碑で、その上で刻まれた八つの文字は山梨県知事の書です。これが植樹記念物で、隣のが平和友好記念碑、その西の向こうにある大きいのが日中友好世界平和記念物です。その東サイドにハルビン市の市の花、ライラックが植えてあり、西側には、日本の国花である桜が植えてあります。そのうちの5本は60年代日本から贈られたもので、今ではかなり大きくなっていますね。」

 

 現場:「また、公墓のこれまでのいきさつについて、王主任は次のように語ってくれました。」

 王主任:「日本が敗戦した1945年、方正県にいた開拓団員は多くが3ヵ所に集まっていました。その多くがハルビンに近かったので、人々は早くから敗戦の知らせを知り、敗退して来た日本軍と共に引き上げてきましたが、方正県の東にある樺林などいくつかの県にいた日本人は、敗戦の知らせを耳にするのが遅れ、日本軍との撤退には間に合わなかったらしいのです。彼らは中国人に恨まれているのを知っていましたから、大きな道を通って引き上げたりはせず、険しい山の小道をたどって大連に向かおうとしました。彼らが方正県に着いたのは10月の半ば頃で、ここは北国ですから初冬でも、かなり寒くなっていました。もと方正県にいた開拓団員はすでに引き上げていましたので、あとから着いたこれらの人たちおよそ1万5000人は、方正県開拓団の本部だった村に泊っていました。そして寒さ、餓え、病と、自殺などで死んでいったのは約5000人で、残る1万人のおよそ半数は女性と子供たちで、特に幼い子供は地元の人に収容され、のちに多くの人が中国政府によって日本に送還されました。こんなことがあって、方正県に残った日本人は4000人以上もいました。」

 「1962年、山を切り開いていた村人たちは多くの遺骨を発見しました。地元に残った日本人の話によりますと、これら遺骨は引き上げる途中倒れた日本人のものです。これら日本人は罪なき人だったので、死者たちの墓地を作ってほしいという願いは、1963年の5月、周恩来首相の特別許可で叶いました。その翌年に始まった文化大革命でも、公墓は地元の人々からしっかり守られ、少しも被害を受けなかったのです。

 「いま、中日関係は政治上では下火となっていますが、どんなことがあろうとしても、私達方正県の人々は、この公墓を守っていきます。」

 劉:敗戦から18年後、これら犠牲者の霊は初めてうかばれましたが、この公墓のことはあまり両国の人々に知られていなかったようです。王さんはどのように知ったのですか。

 王:実は、私もつい最近インターネットで偶然に知りました。同時に、日本には、本部を東京に置く「ハルビン市方正地区支援交流の会」があることも知りました。この方正県日本人公墓のことについて、この会事務局の大類善啓(おおるい・よしひろ)さんは電話で次のように語っています。

 大類:「1987年か88年だと思います。『ハルビン市方正地区支援交流の会』ということで行きました。やはりこういうところに立派なお墓を見ることができたんです。そういう意味で、逆に日本が逆の立場だったらこういう事をやっただろうかと思いましたね。そういう意味では、非常に印象深い旅でした。具体的に、この方正県日本人公墓、個人的に会う人に知らせることをしていましたが、多くの人たちはハルビン市は知っているけども、方正という田舎が知らないですよ。まして、中国で日本人公墓があるということは知らないと。それでですね、私達は風雪に耐えた中国日本人公墓、ハルビン市方正県物語を出したんですね。多くの人たちに日本人公墓のことをより知ってもらおうと、例えば、かつて、北京に駐在したジャーナリストとか、非常に中国通と言われる人たちも日本人公墓があるということを知らなかったんです。これはもっと知らせるべきだと、現在のように、政治的に決していい関係ではないですけど、そういう情況の中で、この日本人公墓、それも開拓民、日本の国家の犠牲者なんだけども、そういう人たちのお墓は1963年、日中国交回復前の段階に作ったと中国政府と中国人民のその寛大な気持ちね、僕はこの日本人公墓が現していると思いますね。やはり、この日本人公墓を日本人に知ってもらうと、特にこういう時代だからこそ、みんなにしってもらいたいと、特に日本の政治家とかね、こういうことがあるんだよと知ってもらいたいなと思っています。方正地区支援交流の会は始まったばかりのものですけれども、ぜひ私達の活動を理解して頂いて、色々と、会員になって頂きたいとか、いろんな形で支援していただければ嬉しいですね。」

 劉:「ハルビン市方正地区支援交流の会」の方々、ご苦労さまでした。

 王:方正県日本人公墓ができてから42年も経ちましたが、いまでは当時の若者もすっかりお年寄りになってしまいます。また十数年前には、公墓の隣に、日本残留孤児の養父母たちの墓碑が建てられました。ここには戦後中国に残された日本の子供たちを育てた中国人の養父母たちが眠っています。私たちが公墓を訪れた日に、暫く前亡くなった「石ママ」と親しまれていた方のお葬式が行われていました。

 女性残留孤児:「石ママがいなくなったので、とても悲しんでいます。私も日本人残留孤児で、実の家族とは一度連絡は取れたものの、その後は消息がなくなり、ずっと中国で暮らしています。石ママとは赤十字社の日本人残留孤児の集いなどでよく会い、親しくしてもらいました。」

 石ママとはどのような人だったのか、その遺族と日本人であった息子さんとはどのように暮らしていたのかをまず、石ママの三男に伺いました。

 石金楷:「私は三男です。一番上の兄は日本の残留孤児で、ずっと家族の長男とされています。本当は二番目の兄が実の長男なのですが、母の意思に従って次男として暮らしていました。兄は石金峰と言い、ライフーというあだながあり、それは福は来たりという意味です。兄の日本名は小林義明です。母の話によりますと、ライフー兄さんをもらったその年の冬はかなり寒かったのです。家に家具を修理しに来た日本人の大工さんはかなり薄着だったのです。これを見た母は気の毒に思い、早速上着を渡したので、大工さんはとても感動していました。そこで日本人の大工さんは、私は日本人です、あなたたちは親切なのを見込んで、ある日本人の子供をぜひ預かってほしいと頼んだのです。こうして当時4歳だった兄を母に預けたのです。実は当時、私の母は20歳で、結婚して一年も立っておらず子供はまだありませんでした。また母には仕事がなく、父は靴の修理で生計を立て、家は貧しかったのですが、それでも、病弱だった兄を受け取り、一年間ほど休養させ、やっと元気を取り戻させたということでした。」

 劉:その養父母は偉いですね。その後はどうなっていますか。

 王:その後、石ママには二人の男の子が生まれ、中国の伝統に従い、自分の生んだ子を石金民、石金楷と名づけました。

 劉:自分の子供が生まれた後、長男の石金峰さんはどうなったのかな?

 王:そこが気になりますね。これについては、三男の石金楷さんがあることを話してくれました。

 石金楷:「上の兄と二番目の兄は幼い時に、ほぼ同時に天然痘にかかりました。天然痘は伝染病で、当時はかなり治しにくい病気だったのです。またお金がないため、一人しか病院に送ることが出来ず、私の両親は相談して、上の兄を病院に送り、実の子の二番目の兄を隣のおばさんの針灸によって直してもらうことにしたのです。幸いなことに、二人とも治りましたよ。」

 石金民:「私は次男の石金民です。当時は6歳か7歳で、兄は私より4歳年上です。両親が兄を病院に送ったからと兄を憎んではいません。貧しかったから仕方ないと思っています。」

 「兄とけんかしたことは一度もありません。兄はおとなしく、家事であればなんでもやりこなし、よく両親を手伝っていました。私たちとも仲良くて、周りのほかの子達とも兄弟のように付き合っていました。中日関係が正常化し、兄は日本の家族と連絡が取れました。母は兄と別れるのがつらかったようですが、兄が帰国する前、家族そろって兄の帰国を祝ってあげました。」

 王:1982年、石家の長男石金峰さん、つまり小林義明さんは日本の家族と連絡が取れ、奥さんと子供たちを連れて日本の熊本県にある実家に戻りました。帰国後、金峰さんは手紙で中国の家族と連絡を保ち、養母の石ママを3回ほど日本に迎えましたが、残念なことに、その後、金峰さんは中国に来て養父母を見舞うことができなかったそうです。石ママは生前、「彼はいろいろ大変だから、理解してあげなさい」とよく息子さんたちに言っていましたが、弟の金民さんと金楷さんらは、兄の金峰さんが母の死に水を取れなかったことを非常に残念に思っています。

 石金民:「兄のことをいつも思っています。どうしてのちに私たち家族を会いに来ないのかと兄に聞きたいですよ。」

 石金楷:「兄さん、母さんはなくなる前、兄さんはお母さんのとてもよい息子であり、私たちの最もよい兄だと言い、兄さんは大変だから、理解してあげなさいと言ってました。これまでのことは水に流すことにしましょう。それよりも、兄さんは私たちの家族として数十年間も一緒に暮らしたのだから、母さんのことはきっと忘れないことだろうと信じています。母さんはもういってしまったけど、兄さんは体を大事にしてほしい。母さんが期待していたように、私たちはこれからもずっと兄弟でいましょう。」

 パン春英:「私は隣に住むのパン春英です。金峰兄さんは、私が成長するのを見ていた人です。石ママはとてもいい人です。その一生は、他人への思いやりばかりで、自分のことはぜんぜん考えていないのです。石ママは金峰兄さんを育っただけではなく、その子供の面倒までも見ていました。

 「先ほどの二人の兄さんが言ったように、金峰兄さん、中国に帰ってきて、石ママのお墓参りをしてくださいよ。これはみんなの願いです。」

 王:黒龍江省ハルビン市付近の方正県にある日本人公墓「中日友好園林」とそれに関わる残留孤児のストーリーでした。ではまたスタジオに戻ります。今日のゲストは、元文化次官で、中国対外文化交流協会の劉徳友副会長です。

 劉:中国では、昔から、「寛大な心を持つ」ことが美徳とされています。方正県日本人公墓はまさにこの美徳を表しています。良いことをやればいつか必ず報われるといわれていますが、方正県の人々と日本の人々とのつながりは切っても切られないものでしょう。

 王:その通りです。1980年、ある日本の方は方正県の日本人公墓を見学した後、中国人の心構えに感動され、中国のために私も何かをやろうと思い、方正県での稲の栽培を無償で指導することを決心しました。その指導の下に、方正県をはじめ、黒龍江省の稲の収穫は倍以上に増え、その後、この栽培技術は中国のチベットと台湾を除く全ての省や自治区に普及しました。中国の稲の栽培に大きく貢献したこの人が、藤原長作先生です。藤原長作先生は1998年の8月17日になくなりましたが、今でも先生のことを方正県の県民は忘れてはいません。先生の遺志に従い、その遺骨の半分は中国に送られ、日本人公墓のある「中日友好園林」に安置されています。

 方正県政府は藤原長作先生のために墓碑を作りました。この墓碑をデザインした外事弁公室の王主任は次のように紹介してくれました。

 王主任:「墓碑の上端にある稲の模様は、藤原先生が一生をかけて従事した稲栽培を意味します。この墓碑の高さが2.72メートルなのは、先生が初めて方正県でテスト用として耕した農地の面積を意味し、墓碑の下部の長さ87センチの台は、先生が87歳まで生きられたことを象徴しています。そして、墓碑を囲む7本の欄干は、先生が稲栽培を指導するため方正県を7回訪れたことをあらわしているのです。」

 「最も印象深いのは、『私は戦争に参加してはいませんが、私自身の行動で日本の戦争で犯した罪を償いたいのです。』、『私は共産党員ではありませんが、カナダのベーチューンのことは知っていますよ』という先生の言葉ですよ。」

 王:1963年5月に方正県日本人公墓ができて以来、戦争の犠牲者となった日本の開拓団民、日本人残留孤児を育てた中国人の養父母、そして中国の稲栽培に貢献した日本人の藤原長作先生など、日本人だけでなく中国人も同じ中日友好園林に眠っています。この点はまだ多くの人々には知られていないかもしれませんが、園内のポプラ、柏、ライラックと桜などは、数十年来、この中日の物語を静かに見守ってきたのです。

 王:番組の最後に、今日の特別ゲストである中国対外文化交流協会の劉徳有副会長のご感想をお聞きください。

 劉:え、王さんからは大変感動的な話を伺いました。問題はこれからは中日友好関係をどうするかということだとおもいますけれども。今後の中日友好関係を考える時、私は何よりも、相互理解と相互信頼を強めることが非常に重要であるというふうに考えます。まず第一に、人的往来、これをもっともっと盛んにする必要があるんじゃないかと思います。で、第二点は、文化交流、これをもっと強化する必要があると思います。文化交流というのは、いわば、心と心の交流でございまして、やはり、この心と心に橋をかけるプロジェクトというふうに私は理解しております。その橋の名前は友好の橋であり、相互理解の橋であると思います。で、今後この橋を渡る行き交う人がますます多くなることは私は非常に強く希望しております。第三点は、何でも話せる、つまり、本音で語り合えるこの仲になる、友人になるということが大事じゃないかと思います。そういう本音で語り合える友人のことを中国では『そう友』と言います。『そう』は言辺に『争』、それから友達の友、この言辺に争うのが諍いと読みますけれども、そういう意味じゃなくて、本当になんでも話せる友人のことを『そう友』と言うんです。中日両国人民はやはりそういう友人であってほしいと思います。それから、中日両国の未来について、私の考えをちょっと述べてみたいと思いますけれども、中日両国の人民はやはり世世代代に亘って、孫子の代まで友好的に付き合うことが非常に大事だというふうに考えます。なぜなら、中日両国はアジアにおける二つの非常に重要な国でございます。で、この二つの国が友好的に付き合うということはただ両国の利益になるだけじゃなくて、アジアと世界の平和につながるからでございます。中日両国に必要なのは、いうまでもなく、友好、協力、平和であって、対立、反目、敵対ではないと思います。で、いま改革開放を進めている中国にとって必要なのは、ほかでもなく、自国の社会の安定と周辺の平和と安寧でございます。お隣の日本も戦後歩んできた平和発展の道を今後も歩み続けるよう私はせつに望んでおります。(終り)

         

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