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忘れ難き傷跡
   2005-08-17 15:20:52    cri

 8月15日は、中国人民による抗日戦争に終止符が打たれ、日本が降伏する記念日です。

 この特別の日を記念して、中国国際放送局日本語部は、三回にわたって、それぞれ35分枠の特別番組をお届けすることになりました。今日はその一回目、「忘れがたき傷跡」。

 中国の周恩来元首相は、次のように述べたことがあります。

 「中日両国の歴史には、二千年あまりの友好往来と文化交流があります。両国人民は深い友情の絆で結ばれました。これを大切にしなければなりません。しかし、1894年から、半世紀あまりの間、日本軍国主義の侵略によって、中国人民は大きな被害を受けると同時に、日本人民も深く傷つけられました。前を事を忘れず、後の戒めとする。このような経験と教訓をしっかり肝に銘ずるべきです。」

 では、一体、60年前の中日間には、どんな歴史があったのでしょうか。ここで、もう一度振り返ってみてみましょう。

 1931年9月18日、日本は「九・一八事変」つまり「柳条溝事件」を引き起こし、このときから約半年間で東北三省を占領しました。こうして東北の人々は苦難のドン底に陥ったのです。

 毛沢東主席は、当時のことを、「その時、東北の人々の貧しさと不自由な点では、世にも稀であった。」と語っています。当時の日本政府は東北で傀儡政権である満州国を作り上げた後、地元での日本人の人口構成率を高め、また日本国内の農村の過剰人口を減らすため、中国の東北へ日本人を送り込みました。開拓民と呼ばれていたこの日本人たちですが、実は中国人が苦労してか開墾した土地を安い値段で強制的に買い取ったり、農民を追い払って奪ったりしたのです。

 経済的にひどく略奪された東北の人々はかなり悲惨な生活を送っていました。特に、日本の太平洋戦争発動後、中国の東北部はその侵略戦争拡大に備えた資源供給基地とされました。主な生産と生活資料を統制するいわゆる「配給制度」が全面的に実施されたので、人々はいっそう惨めな暮らしを強いられたので。黒龍江省社会科学院の辛培林教授は戦時下の東北人民の生活情況を振り返り、次のようにに語っています。

 「当時、東北の人々の食べるものには、どんぐりの粉しかなく、また着るものは麻袋、更生布とクラフト紙などだったのです。」

 東北の三つの省が占領された14年間に、食糧危機の深刻化によって、いたるところには飢えと寒さで倒れた人を見かけました。1942年の1月から5月までに、黒龍江省の双城、依蘭、綏化と鶴岡などで、食べるものがなくなり自殺した人は340人を超えたといいます。

 「当時、人々はもっとも恐れたことがいくつかあります。一つは浮浪者として捕まること。浮浪者とは身分を証明できない人、失業者、そして家を失ってさすらう人たちのことです。これた人々は捕まると、強制的に労働させられます。もうひとつは、労働者として強制連行されること。一旦強制連行されると、その人はすでに亡くなったと同様に見られます。つまり、生きて帰れる可能性が極めて少なかったのです。」

 日本軍による侵略拡大と経済略奪の需要に答えるため、傀儡政権「満州国」政府は1941年から、「国民偕労」という労働体制を実施し始めました。つまり浮浪者取締りなどを口実に、多くの人を強制連行し、国境地帯や軍事工事の現場および鉱山などに送り込み、強制労働させていました。

 事実上、これら浮浪者と呼ばれた人たちは、ほとんどが普通の貧しい労働者でした。彼らは最も厳しい労働を強いられ、命も保障されず、日本軍国主義者にこき使われた最も苦難な人たちからなる集団でした。

 黒龍江省社会科学院歴史所の王敬栄研究員は、

 「当時、東北はすでに労働者強制収容所となったと言えます。労働者たちは主に五つのルートを通じ連行されました。それはまず。山東省、河北省、河南省など華北地区から募集したり、連行したりすること;第二、は東北現地の男性を強制労働させること;第三は学生たちに「勤労奉仕」させること;第四は「浮浪者」を捕まえて強制労働させること;そして第五は、戦争捕虜に労働を強いることです。」

 専門家の調査によりますと、1931年の「九・一八事変」から1945年に日本が降伏するまでの14年間、日本軍に強制連行された中国人労働者は1000万人あまりに達したとのことで、これら労働者は賃金どころか、重労働を強いられた上、食べ物もろくに与えられず、飢えと過労で多くの人が死にました。

 張洪業さん、今年78歳、1944年4月のある日の夜、ハルビンの平安映画館で映画を見ていた張さんは突然侵入してきた憲兵隊に捕まり、炭鉱に連行され、重労働を強いられました。

「1944年6月、天気がとても暑いため、多くの人は夏風邪を引き、私もうつされ、小でに寝転んでいましたが食べ物も与えられず、死に際でした。ある日、日本人の医者が来て、私たち病気にかかった人を見て、これはチフスで伝染すると断定し、まだ生きている人たちは全部炭坑に捨てられてしまいました。炭坑にはかなり水が溜まっていたため、大胡の人が病気で死んだり、溺死したのです」

 当時の日本政府は、黒竜江、吉林と遼寧という東北の三つの省で強制連行と強制労働という悪事を働き、更に、日本国内の労働力不足を補うため、1942年11月に当時の東条内閣は財界からの強い要請を受け入れ、「華人労働者内地移入ニ関スル件」を閣議で決定し、1943年4月から1945年5月にかけて、38939名もの中国人を日本に強制連行し、炭鉱や軍需工場など日本各地にある135の事業所で奴隷のように働かせたのです。

 「山を開き、川を改修する仕事をやらさせた。毎朝早く出て夜遅くまで働いた。腹いっぱいどころか、腹半分も食べたことはなく、どんぐり粉で作ったものなどを食わされた。」

 「ほんとうに酷い目にあった!疲れた!一日に100グラムの食糧らしいものしか得られず、安い漬物や海苔、大根などしかなく、しかも腹いっぱい食べたことがない。みんなひどくやせちゃって、とうとう耐えかね、代表を出して補導員と話し合いに行った。しかし、それでも食べ物を増やしてくれなかった。」

 満足な食べ物が与えられず、想像以上の厳しい労働と生活条件にあって労働者は次々にその命を奪われました。また命を落とさないまでも、体に障碍を残した労働者は大勢いました。こうしてわずか二年間ほどで、日本に連行された約4万人の中国労働者のうち、7千人あまりが死んでいったのです。

 労働者たちの呻き声が聞こえた東北の広い大地には、日本軍によるほかの恐ろしい犯罪が行われていました。それは細菌兵器と化学兵器に関する実験、そして開発と使用です。

 2003年8月4日、黒龍江省のチチハル市で建築作業員が掘り出した日本軍の遺棄化学兵器であるドラム缶から漏れ出た液体により、作業員ら43人が中毒を起こし1人が死亡しました。これは偶然に発生した事件ではありません。

 戦争中、チチハルは日本関東軍化学部、すなわち第516部隊の駐在地でした。この部隊は、日本の毒ガス製造所である大久野島から送られてきた毒ガスを詰め替える作業をし、更にさまざまな演習や訓練を繰り返し、最後に中国の抗日戦場で使用する役目を担っていました。

 日本軍は中国で2000回以上毒ガス兵器を使用た結果、9万5000人が死傷しました。

 1945年8月の敗戦に際し、日本軍は国際条約で禁止されている毒ガス使用の事実を隠蔽するため、大量の化学兵器を近くの河川や沼に捨てたり、また地中に埋めて日本に逃げ帰りました。敗戦時に日本軍が遺棄した毒ガス兵器は推定70万~200万に上るといわれています。そのために戦後、これら遺棄化学兵器により被害を受けた人は大勢いいて、戦後60年たった今日でも、普通に暮らしている人たちが尚も傷つけられているのです。

 「当時のことをを思い出したくはありません。17年前の10月17日、私にとっては悪夢の日で、私の人生は完全にだめになったのです。」

 「主人が被毒したので、我が家から喜びがなくなりました。二人の子供を持つ我が家は、普通の生活を送っていたのですが、毎日が楽しかったのです。しかし、主人が被毒した1987年10月17日は我が家にとては、一生忘れられない悪夢の日でした。」

 このように訴えたのは、1987年10月16日、遺棄毒ガス弾による被害を受けた中国第一重機械グループ付属病院の元医者李国強さんと奥さんです。チチハル市フラルキ区のガス会社は1987年の10月16日、工事現場からドラム缶のようなものを掘り出しましたが、検査を依頼された李先生たちは、それが毒ガス団だとは知らず、調べているうちに被毒し、呼吸器障害や皮膚糜爛などの症状を起こし、今でも後遺症に悩まされています。

 肉体上の苦痛に耐え続け、正常な仕事につけず、長年の治療と高い医薬費のため、いま、この家庭は大きな借金を抱えています。夫婦二人は今ではあまり見かけない薄暗い集団マンションの一室に住み、室内の椅子やベッドなの家具はみんなボロボロになっています。そして、家族全員がくらい表情から抜けられず非常につらい日々を送っているのです。

 「主人が被毒した後、うちの子供たちは学校でひどくいじめられました。お前のお父さんは伝染病にかかったから、お前も伝染病の子だ!と言われ、みんなから嫌われたのです。」

 李国強夫婦は長年来彼らを支えてきた日本の友好団体や関係者に感謝の意を表すとともに、日本政府が戦後の遺留問題を正視し、謝罪を行い賠償するよう求めました。

 今年の7月25日、日本駐在中国大使館は抗日戦争勝利60周年を記念する一連の活動の一環として、映画会を行いました。その映画は監督の海南友子女史が製作したもので、中国東北に遺棄された日本軍の化学兵器による被害を取材したドキュメンタリーです。

 映画会の前に、中国の王毅大使は、「かの歴史は忘れてはならず、回避してもなりません。更に、歪曲してはならないのです。その中から有益な経験と教訓を汲み取ることによって、真に平和を維持し、発展を促し、歴史を鑑とし、未来に目を向ける姿勢を示すべきです。」

 そして、海南友子女史は、「現在、日本政府は沢山のお金を使って、自衛隊をイラクに送っています。これは大量破壊兵器を理由にした戦争でした。大量破壊兵器の中には、化学兵器も入っています。人の国が持っているか持っていないかが分からなかった大量破壊兵器を理由に軍隊を送るお金があるならば、自分の国がかつて実際に造って使っていた大量破壊兵器を優先して、片付ける義務があると思います。まだまだ日本側ができることが沢山あるんです。それによって、次の新しい事故が必ず防げます。」

 映画会のあと、早稲田大学を卒業して社会人になったばかりの渡辺崇之さんは記者のインタビューに答えて、「日本政府はもちろん、民間からもそういう問題をしっかり認識して、何か支援をするのも必要だと思います。もちろん、民間では学生間の交流や草の根の交流で、そういう問題を共有していくというのは、とても大切です。それは私たちが頑張らなければならないことです。」

 日本侵略軍が中国の大地に遺棄した化学兵器は、60年余りの歳月が経ち、腐蝕が進んでいるため、人々への危害が心配されています。また、周辺の河川や土壌への影響も計りしれません。日本政府が一日も早く真剣な対策を講じない限り、今後も被害が続くだろうと予測されています。この意味では今でも戦争が終わっていません。

 第516化学部隊のほか、もうひとつ言及したいのはその先輩格にあたるハルビンの第731部隊による罪悪行為です。関東軍防疫給水本部、つまり731部隊は、細菌戦兵器の研究開発を目的とし、致死的な生体実験を秘密裏に行うための研究施設でした。その影響と被害は北京、南京、広東など中国各地からシンガポールまで広がっていました。

 731部隊に移送され生体実験の対象とされた犠牲者たちは「マルタ」と呼ばれ、スパイや思想犯の容疑で捕まった中国人やロシア人、朝鮮人、モンゴル人たちもいて、なんと罪なき農民や女性、子供までも含まれていました。その数は3000人以上にのぼっており、そこから生きて出られた人は一人もいなかったのです。

 1937年、日本軍による全面的な中国侵略戦争が発動されたあと、731部隊が開発した細菌爆弾は作戦で広く使われ、少なくとも20万人が殺害されました。そして、1945年8月の日本の敗戦に先立ち、731部隊は証拠隠滅のため、あらゆる証拠物品を焼却炉で燃き、部隊の施設を爆破し、マルタや現地の中国人労働者を虐殺し、死体を償却したり川などに捨てたりしましたが、そのときに残された大量の実験用の蚤やねずみなどによって、1946年から1948年まで、ハルビン周辺では、多くの人がペストに感染し、死んでしまいました。

(辛教授、ネズミについての証言)

 「1950~60年代になってからも、ハルビンではまだペストの疫病予防などをしていました。春になると、住民たちは家の回りに石灰を撒いて、ノミやネズミによる伝染を防いでいます。もともとハルビン地区はペスト多発地ではなかったですが、日本軍がわざわざペスト菌を散布したせいです。戦争はすでに終結しましたけれど、その爪あとは今でも中国の人々に危害を加え、多くの人を傷つけています。」  

 日本軍の野心は東北三省だけではありませんでした。1937年7月7日、日本軍は「盧溝橋事変」を引き起こし、全面的な中国侵略戦争を発動しました。そして8月から三ヶ月かけて上海を占領した後、12月の13日、南京の国民党政府を屈服させるため、20万の軍隊を繰り出して南京を占領しました。人類史上の大惨事?南京大虐殺がこのときに発生したのです。

 (生存者の証言)

 「当時の南京は血が河のように流れ、どこに行っても、しかばねが転がっていました。日本軍は朝から晩まで虐殺を繰り返していました。前へ逃げようとすれば、前から銃剣をかまえた日本軍が刺してくるし後ろへ逃げようともすれば、同じく銃剣をかまえた日本軍が迫ってくる。こうして、逃げ遅れた人はみんな殺されて死んでしまいました。」

 当時の中華民国の首都とされた南京は、城壁に囲まれた美しい古都で、人口は百万人を超えていました。1937年12月から、翌年の1938年3月ごろまでに日本軍は、捕虜にした中国軍の兵士をはじめ、一般市民を拉致連行して集団虐殺しました。その数はおよそ20万人から35万人ぐらいに達しています。また、強姦された中国人女性の数は2万人を超えたと推定されています。

 その時のアメリカの大手新聞「シカゴ・デイリー」の1937年12月15日の記事はこのように記されています。 「南京の包囲と攻撃を最もふさわしい言葉で表現するならば、地獄の4日間ということになろう。首都攻撃が始まってから南京を離れる外国人の第一陣として、私は米艦オアフ号に乗船したところである。南京を離れるとき、我々一行が最後に目撃したものは、河岸近くの城壁を背にして300人の中国人の一群を整然と処刑している光景であった。そこには、すでに膝のあたりまで死体が積まれていた。」としています。

 このような血と涙の歴史を永遠に銘記するため、68年前に廃墟になった南京の地に、南京大虐殺犠牲者記念館が建てられました。

 1937年、国民党政府は南京から撤退し重慶に移りましたが、日本軍は直ちに重慶を進撃し、1938年から1943年までの五年間に、重慶に対して200回もの無差別爆撃を行い、2万人あまりが死亡し、莫大な財産損失をもたらしました。

 北京大学芸術学部の大学院生李沅さんは大爆撃の被害をテーマにドキュメンタリーを製、重慶での約10日間の取材で、多くの被害者たちのことを聞き、感動したとのことです。

(北京大学学生李沅)

 「もっとも深く印象に残ったことといえば、あるお爺さんのことです。1939年に大学に受かった人なんですが、ちょうどその年に日本機に爆撃によって脊髄神経がひどく損傷し、その人生は完全に変わってしまったのです。その後、正常な仕事もできず、政府からの少ない手当てに頼って暮らしていました。私が訪問したとき、お爺さんは老人ホームの一室に住んでおり、かなり暑くなった5月でも、痛みがないようにするための綿入れのズボンをはいているのを見て何ともいえない悲しさを感じました。」

 これら重慶大爆撃の被害者たちは、現在、「重慶大爆撃原告訴訟団」を結成し、日本政府に謝罪と賠償を求めています。このお年寄りたちが訴訟を起こす目的は、お金をもらって暮らしをよくすることだとよく誤解されますが、李さんにこ次のように話しました。

 「お爺さんとお婆さんたちは私にきっぱりといいました。『これまで貧しい生活を送ってきたし、残りの人生は短い。だから経済的な補償なんかは実は要らないのだよ。』、つまり彼らが心から望むのは、歴史の公正を求めることで、それは歴史問題に対する日本政府の肯定と謝罪なのです。」

 日本軍は、国民党正規軍への進攻を続けると共に、共産党の指導下にある華北地域の解放区を根絶させるため、「三光作戦」、すなわち、殺しつくす、焼き尽くす、奪いつくすという作戦を実施しました。これによって、華北地域の人民は大きな損失を受けたのです

 第二次世界大戦中、中国一般民衆が受けた被害はまだまだたくさんあります。それらはただ歴史の事実だけではなく、心に深く刻まれたいつまでも消えることのない傷跡なのです。

 戦時中の中国人の被害について、中国社会科学院近代所研究所の歩平研究員は次のように述べています。

 「14年間も続いた侵略戦争により、中国人の死亡者数は1995年の統計データーによりますと、およそ3500万人に達したとのことです。更に、財産損失は計りしれないものだったのです。」

 戦争は傷つけ、傷つけられるものです。1945年3月10日の東京大空襲では、日本国民の8万人あまりが死亡しました。また、1945年8月の広島と長崎での原爆投下によって、30万人以上が犠牲になりました。更に、戦死者と戦災死亡者を計算しますと、第二次世界大戦での日本人死亡者数は合わせて約310万人に達したとのことです。

 戦後の日本では、原爆など戦争被害については多く語られてきましたが、加害については沈黙し否定されてきました。このことによって、戦争体験のない中国人と日本人の間には、第二次世界大戦に対する認識のギャップが存在しています。歩平研究員はこれについて、

「私は広島の若者を前に『広島から南京へ』というテーマの講演を行ったことがあります。中国の南京に行ってみてほしいです。私自身は広島に来て、広島の被害をこの目で見ました。皆さんはもっと視野を広めて、南京に行き中国の被害を見る必要があると思います。かつての日本軍の加害により中国人は大きな被害を受けたのです。日本人はこの加害という立場から戦争を見直さなければなりません。この点について認識できなければ、いつまでも中国人からの理解を得られないでしょう。」

「苦い涙の大地から」というドキュメンタリーの監督海南友子さんも、

「もちろん、被害も日本人も受けているんですけれども、市民としては。でも、それ以上に、他国に軍隊を送って侵略をして、人を殺したり、強姦したり、子供を井戸に投げ捨てたり、強姦したあとの女の胸から切り取った肉を食べたりするとか、そういうことは実際にしているわけなんですよね。そういう報道はほとんどないという現実から考えれば、市民の視点での加害責任ということは、今の報道で問われていないと思うんですね。」

 被害の体験は語りやすいですが、加害の体験はなかなか語りにくいものです。日本政府は中国の愛国教育に対してああだこうだと非難するのをやめ、真剣に「歴史を鑑とし、未来に目を向ける」ことを念頭に、不幸な歴史を二度と繰り返さないということを実際の行動で示すべきではないでしょうか。

 中国人民の抗日戦争勝利60周年記念特別番組、今日はその一回目「忘れがたき傷跡」とお送りしました。この番組は明日も続きます。どうぞお聞きください。今日の担当は周莉でした。

通信
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v 60周年紹介 2005-08-03 15:46:04
v 少年義勇軍開拓団員から解放軍の戦士へ 2005-07-27 10:55:07
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