戦争はいつも人々にいつまでも傷跡を残し苦痛をもたらします。振り返る勇気もないほど、その傷跡はつねに心を痛めるのです…
日本軍による中国侵略戦争はすで60年前に終止符が打たれました。被害者たちのこころに残された深い傷跡はいまでも消えてはいません。
日本軍による残酷極まる作戦の展開、占領区住民に対する略奪、南京大虐殺、重慶に対する無差別爆撃と労働者の強制連行などなど、日本軍による罪悪行為は抹殺できない歴史的事実としてはっきり記されています。
世界の反ファシズム戦争と中国人民の抗日戦争勝利60周年記念シリーズ番組、『末永く世の平和を目指して』。その第三話ーー「今も消えぬ傷跡」。戦争中に強制連行された中国人労働者。
一.花岡事件60周年記念
今年は中国人民の抗日戦争勝利60周年ですが、おなじく今から60年前に、中国から日本の秋田県大館の花岡町に強制連行された中国人労働者たちは、日本に軍国主義者と鹿島組による非人道的な待遇のもと、重労働に従事させられ、耐え難き状況で花岡で蜂起しました。しかしこの正義の行動は失敗し多くの犠牲者が出たのです。つまり「花岡事件」、中国で言う「花岡虐殺」から60年がたったのです。この蜂起当日から60年経った今年の6月の30日、北京の中国赤十字社賓館では、記念追悼式が行われました。会場では生存者と遺族ら約200人が黙祷をささげて犠牲者の冥福を祈り、日本からも「花岡平和友好基金」運営委員長である田中宏・龍谷大教授やNPO花岡平和記念会の谷地田恒夫副理事長ら約20名が参加しました。
追悼式で挨拶に立った中国紅十字会の蘇菊香副会長は「戦後、中日両国の平和を愛する人々のたゆまない努力の下に、両国は友好関係を結んだ。花岡蜂起からすでに60年たったが、この不幸で悲壮な歴史を私たちは忘れてはならない」と話しました。
NPO花岡平和記念会の谷地田恒夫副理事長は次のように語りました。
「中国への侵略戦争を永遠に忘れてはなりません。そして、侵略戦争で犠牲になられたあまりにも多くの人たちのことを忘れてはなりません。真に平和を、日中友好を口にすることができるのは侵略戦争で犠牲になられた方々に対する賠償がすみ、犠牲者との和解が完了した時点からです。」
花岡受難者の遺族代表、劉同娟さんは父親が日本侵略軍に強制連行されたあとの家族の当時の苦しみを振り返り、悲しみと憤りを抑えることができませんでした。「当時、我が家の苦しみは、本当に言い表せません。一家を支える大黒柱がいなくなってしまい、天が崩れた思いでした。私の祖母は一日中声を泣き続けていたため、病気になって倒れました。母は三歳の姉を抱え、そのとき私は母のお腹の中にいたのです。家は貧しくて食べるもの着るものもなく、マッチすらありませんでした。母はこのことを語るとき、いつも涙で言葉に詰ったのです。」
花岡事件の生存者の代表汪整禄さんは60年前に殺された仲間たちへの弔辞のなかで、「中国人強制連行は日本の政府、軍隊、企業が三位一体となって、中国人民に犯した罪である。日本政府は逃れることのできない直接の重要な責任を負わなければならなお。」と訴えました。更に、「先のことを忘れず後の戒めとする。私たちは必ずかの事実を心に深く刻み、歴史を鑑とし、歴史の事実を否定するすべての行為と戦います。中日両国の子々孫々の友好のため、世界の永久な平和のため弛まなぬ努力をしていきます。」
同じくこの日、日本の秋田県大館市の花岡町では「中国人殉難者慰霊式」が行われ、花岡事件の生存者や遺族ら250人が出席しました。 大館市の小畑元市長が犠牲者の名を刻んだ「中国人殉難烈士慰霊碑」の前で、「非人道的行為は、いかに戦時下という状況にあったとしても許されない。二度と過ちを繰り返してはいけない」と誓いました。これより先、「花岡事件」の被害者李鉄錘さんらは29日、日本の首相官邸を訪れ、政府に事件の真相解明と謝罪を求める要請書と約23万の人々の署名を杉浦官房副長官に手渡しました。この要請書は、強制連行と強制労働などは日本の政府、軍隊、企業が三位一体となって行った犯罪であると指摘した上で、事件の真相を徹底的に調査し、すべての事実を公表すること;強制連行や強制労働について政治的、法的、道義的な責任を認め、公式謝罪と賠償を行うこと;侵略戦争を真に反省することを日本政府に要求しました。
二、歴史の真実
60年前の「花岡事件」はどんな事件なのでしょうか。ご存知なのかもしれませんが、ここでもう一度振り返ってみてみましょう。
1931年の9月18日、「九一八事変」が起きた後、日本軍は中国東北の三つの省を占領し、「満州国」を作り上げました。更に、1937年7月7日「盧溝橋事件」が起こり、日本軍国主義者は中国での全面的な侵略戦争を引き起こしたのです。日本軍は戦場では中国軍隊に攻撃を加えることはもちろん、住民の財産を略奪するほか、罪なき中国人にも残虐な暴行を加えたのです。
1931年から1945年の日本敗戦までの14年間に強制連行された中国人は合わせて2000万人に達しました。中国社会科学院近代史研究所の歩平研究員は、次のように語っています。
「当時、日本は深刻な労働力不足に直面していました。例えば日本が作り出したいわゆる『満州国』という中国占領区では、軍事工事や採鉱などのため、大量の労働力を必要としました。日本軍はここでの労働力不足を緩和するため、主に河北や山東一帯から労働者を強制連行しており、その人数は膨大なものでした。一方、日本本土でも労働力不足の問題が起こり、当時の日本政府は中国労働者を日本に連行することをきめたのです」。
日本国内の労働力不足を補うため、1942年11月に当時の東条内閣は財界からの強い要請を受け入れ、「華人労働者内地移入ニ関スル件」を閣議決定し、1943年4月から1945年5月にかけて、38939名もの中国人が日本に強制連行され、炭鉱や軍需工場など日本各地にある135の事業所で奴隷的な動労を強いられました。
「山を開き、川を改修する仕事をやらさせた。毎朝早く出て夜遅くまで働いた。腹いっぱいどころか、腹半分も食べたこともなく、どんぐり粉で作ったものなどを食わされた。」
「ほんとうに酷い目にあった!疲れた!一日に100グラムの食糧らしいものしか得られず、安い漬物や海苔、大根などしかなく、しかも腹いっぱい食べたことがない。みんなひどくやせちゃって、とうとう耐えかね、代表を出して補導員と話し合いに行った。しかし、それでも食べ物を増やしてくれなかった。」
満足な食べ物が与えられず、想像以上の厳しい労働と生活条件は労働者の命を次々と奪っていました。また命を落とさないまでも、体に障碍を残した労働者は大勢いました。こうしてわずか二年間ぐらいで、日本に連行された約4万人の中国労働者のうち、約7千人が死んでいったのです。
1944年8月以降、秋田県大館市の旧鹿島組花岡出張所に強制連行された986人の中国人労働者は、飢えと過酷な労働などで次々に死亡しました。そして45年の6月30日、耐えかねた中国人が一斉に蜂起しましたが、憲兵隊や警察などに厳しく弾圧され、113人が虐殺されました。その後日本が降伏するまでの中国人死者数は418人に達しており、連行された986人のうち、やく半分は虐待死されたのです。
三、和解の成立とこれからの課題
以上の歴史は一般の人に知られないまま、半世紀の歳月が過ぎてしまいました。当時、強制連行された被害者たちは、今ではほとんどが80を過ぎた高齢ですが、それでも生存者は当時の歴史の事実を語り続けています。
1989年12月、花岡事件の生存者と遺族により結成された「花岡受難者聯誼会」は鹿島に対して、謝罪、記念館設置と賠償という三項目の要求を出しました。翌年の1990年、鹿島側は強制連行と強制労働の事実と責任を認めて謝罪し、それを踏まえて原告側と被告側は、問題の早期解決のための共同発表を行ないました。そして、2000年の11月、東京高等裁判所の勧告の下に「和解」が成立し、「和解条項」に基づき、被告鹿島側が5億円を拠出して「花岡平和友好基金」を設立し、花岡被害者の追悼・慰霊や、被害者及びその家族の生活支援や子弟の教育等に当てることとされ、基金に関する今後の事業を中国紅十字会に信託することになったのです。
この事件の解決に向けて、華僑団体や弁護団、日本の民間団体などが長年にわたって共に粘り強く奮闘し、多大な努力を払ってきました。一銭の報酬をももらわずに、長年間裁判のために尽力してきた新美隆弁護士はこのように語りました。
「我々の父親の世代が犯した罪に対して、子供の世代がきちんと解決して、日中の友好を実現するのは、私たちの世代の一つの責任だと思っております。もう一つはやはり一番大きな平和の力というのは、人民同士、市民同士の信頼と友好だろうと思います。これなくして、真の平和が維持できないのです。そのために、戦争が残した問題、被害者のために一緒に共同して問題の解決を図るというのは非常に重要だと思います。この問題が起こったとき、たまたま私が日本で弁護士、法律家をやっていましたから、私の出来る力量でこの問題に対して参加したわけです。大勢の人たちんの協力を得て、小さいけれども、少しでも一個の成果が上がったということを私自身もみなさんと一緒に喜んでいます。 裁判という形は一つの手段であって、要は歴史の事実をきちっと、双方の人民が認識するということが出発点だと思います。特に若い世代がこういう歴史事実をよく学習して、そして、日中両国の友好関係を作っていくというのが一番大事なことだろうというふうに私は思います。」
関係者によりますと、花岡訴訟では原告側は、花岡に連行された968人の全体解決のため、また1990年の共同発表を踏まえ、更には残り少ない生存者が高齢であることを考慮し、もし長期的な訴訟を続けていくと、生存者がいなくなり、原告側が何の利益もなく終わることも懸念して、弁護団が被告側と闘争を続け、のちに「和解」が成立したのです。花岡問題は、日本軍の侵略戦争中における中国人への加害状況では氷山の一角でしかありません。また、関係者は花岡の闘争はこれで終わったわけではなく、「和解」とは花岡闘争での段階的勝利に過ぎず、今後も日本の政府の戦争責任の追及や賠償と求めて引き続き闘争を行っていくと強調しています。また今でも、強制連行を始め、日本軍の遺棄化学兵器や細菌兵器による被害者たちは、真の中日友好を願う人々に支えられ、謝罪と補償を求めて、日本各地で訴訟をし続けています。
「歴史を鑑とし、未来に目を向ける」。フランスのパリ大学の中国人問題専門家ピカル博士は、「歴史を正視するのは義務である」と指摘したことがあります。日本政府が歴史を正視し、過去の侵略戦争が被災国にもたらした大きな災難を真剣に反省してこそ、中国人民とアジア諸国人民、ひいては国際社会の真の信頼を得ることができるでしょう。
世界の反ファシズム戦争と中国人民の抗日戦争勝利60周年を記念するシリーズ番組、「末永い平和を目指して」。今日はその三回目の「今も消えぬ傷跡」をお届けしました。
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