新疆ウイグル自治区の多くは、自然環境が悪い上、経済が遅れています。このため、多くの住民が十分な医療を受けられません。その中で、漢民族の医師・閔立貴さんは、40年間少数民族の患者の治療に当たっています。
1967年、新疆医学院で臨床医療を専攻して卒業した閔立貴さんは、新疆で最も貧しい県・カシュ地区のエイジサ県が管轄するウチャ郷診療所にやってきました。ここは、新疆の西南部の端にあり、天山山脈の南部にある・いわゆる南部新疆に属しています。アフガニスタンに近く、ウイグル族が多く集まり住んでいます。閔さんがやってきた当時、この町には3万人あまりのウイグル族が住んでいましたが、医療設備は粗末で、薬品も不足していました。このため、この町の多くの患者は適切な治療を受けることができませんでした。閔さんは、これを見て、この状況を必ず改善すると心に決めました。「まず、知識のある若者を集めて養成しました。自らウイグル語で教えました。診療所の建物の整備にも手を尽くしました。当時は、資金のやりくりが難しく、自分で土のレンガを作ったりしました。数年掛けて、100室あまりの病室を作り、病院を建てたのです。中には100床のベッドがあり、化学検査室や、レントゲン検査室、手術室も備えました」と閔さんは話しています。
閔さんがこのウチャ郷診療所で仕事を始めたばかりのころ、急性喉頭炎にかかった子供が送られてきました。この子を助けるため、閔さんは子供とその母親を自転車に乗せて、20キロ余り離れた県病院まで送りました。着いてから、自分で手術を行い、子供の命を救いました。このような閔さんのことを、地元の人たちは、「ウイグル族の人々を自分の家族のように扱ってくれる。昼と夜、道の遠近も問わず、患者がいればすぐ駆けつけてくれる」と話しています。ある時には、閔さんは、夜中にロバに乗って、10キロから20キロ離れた農家まで行って治療しました。この診療所で仕事した14年間に、閔さんは1000回近くの手術を行い、延べ100人の重態患者に応急手当を行いました。閔さんは、この粗末な診療所をカシュ地区における進んだ病院にレベルアップさせました。閔さん自身も、カシュ地区とエイジサ県の優秀労働者に選ばれました。
1980年代、閔さんは新疆ウイグル自治区人民病院に転勤しました。以降、閔さんはますます治療に専念すると共に、さまざまな機会を生かして、少数民族の医師養成に力を入れています。人民病院の同僚で、ウイグル族の医師パタールさんは、閔さんのことを、「閔さんはウイグル族の患者を自分の肉親のように扱っています。貧しい患者に何回も寄付金を出しています。その患者が治った後、お金を返そうとしても、受け取りませんでした。私たち少数民族の医師にも、ともて親切に指導してくれます。手術にも立ち合ってくれました。たった5年間で、私を主任に育ててくれました。閔さんにとても感謝しています」と評価しています。
ここ数年間で、閔さんが貧しい患者のために寄付したお金は、8万元(日本円にしておよそ120万円)を超えています。これは閔さんの貯金のすべてです。また、閔さんは、ウチャ郷の小さな病院でも、自治州の大病院でも、治療に全力を尽くしたことで、患者から深い信頼を得ました。特に、十数年携わってきたエイジサ県のウチャ郷へ、数年ぶりに戻ったときは、治療を受けた住民たちは命の恩人に会うために、わざわざ集まってきました。
新疆ウイグル自治区人民病院の高志明医師は、閔さんと長年間の同僚です。閔さんのことについて、「数年前、閔さんはエイジサ県に戻ったことがあります。地元のお年寄りはまだ彼のことを覚えていました。今でも、南部新疆から来る患者は彼を指名します。彼はそこで14年間も働いたこともあって、ウイグル語を身につけました。そのため、地元から来た人々とも交流しやすく、親しくなりやすいです」と述べました。
長年の積み重ねから、閔さんは前立腺治療の効果的な方法を獲得し、医学界で注目を浴びています。前立腺治療の専門家として、国内の大きな病院から呼ばれ、生活条件や研究資金などで優遇条件も出されました。しかし、閔さんはこれに心を動かすことはありませんでした。彼の心の中には、十数年間培った新疆への思いやウイグル族との親しみが深く根付いているからです。
では、クイズを繰り返します。
閔立貴先生は経済的に困っている患者のため、ここ数年間、どのぐらいのお金を出しましたか。
回答とお便りをお待ちしています。
あて先は、郵便番号 100040
中国国際放送局日本語部「新疆シリーズ」係です。
(翻訳 朱丹陽)
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