中国西部の新疆ウイグル自治区には、多数の少数民族が生活しており、ドキュメンタリー番組の監督劉湘晨さんは、何回も世界の屋根と呼ばれているパミール高原に足を運び、パミール高原に生活しているタジク族とキルギス族の数千年にわたる風俗習慣を撮影し、人類に貴重な精神面の財産を残しました。
タジク族とキルギス族は、新疆ウイグル自治区の最も海抜高いパミール高原で生活し、従来の遊牧民族の風俗習慣はうまく保存されてきました。十数年前から、劉湘晨さんは画面と音声で新疆の各少数民族の文化様式をそのまま保存していこうと考えるようになりました。その後、彼は何度もパミール高原に藍を運び、撮影した「太陽の部族」というドキュメンタリ?は、三年連続してアメリカのナショナル・ジーグラッフィック・チャンネルで放送され、もう一つのドキュメンタリー番組、「昆倫山の玉の採掘者」も世界で同時に放映されました。
劉湘晨さんはパミール高原の牧畜民と親しい関係にあり、このような人間関係は、彼の作品撮影に大いにプラスとなりました。しかし、これらのドキュメンタリーを撮影するには、劉湘晨さんは、既に20万元の借金を抱えており、このお金はどう集めればよいのか彼の頭痛の種でした。それにしても劉さんは、新疆の民族の姿をそのまま記録するため、全てを捨ててもいいと意を決しました。彼は、「多数の友達は私がテレビドラマの監督になれば、経済的利益や知名度とよくなるのに、どうして今の仕事をやり続けるのか不審に思った。ドキュメンタリーは、確かに映画やテレビドラマのような熱い視線を集めるものではなく、あの焦点がより多く社会の変遷や人間の生存状態のほうに置かれている。経済面から見れば投入する資金や量力と成果は、アンバランスですが、精神的にはそうとう満足できると思う。私はこのドキュメンタリーの撮影を通じて、異なる風景、異なる人生を体験でき、いろいろなことを感じさせられ、今後、少しずつこれらの感動には含まれている喜び分かってくると思う」と述べました。
1976年、劉湘晨さんは上海師範大学卒業後、ウルムチに帰りました。その後、中学校や大学で教鞭を取ったり、雑誌の記者を務めたりし、いろいろな仕事を体験し、最後は、自分が新疆の人文地理面で、生れつきの鋭い感覚を持つということを感じたことで、新疆テレビ局で編集者と監督の仕事を担うことに就きました。それをきっかけにして、彼は新疆の少数民族の風情溢れるドキュメンタリー番組を撮影し始めました。
1996年、劉湘晨さんは新疆の高原、砂漠、盆地などの地帯で生活している少数民族の情況を撮影することにしました。まず、海抜が最も高いパミール高原で暮らしをしているタジク族とキルギス族からスタートしました。
高原地帯に入りますと、劉湘晨さんの撮影チームのジープはまもなく故障で動けなくなり、仕方がなく、彼らはロバやラクダやひいては人の力で、いろいろな大型機材を、海抜5500メートルの雪の峰に運びました。食べ物の用意が足りないため、劉さんは毎日、インスタントラーメン一個しか食べず、空腹でたまらなくなり、雪で飢えをしのぐことも時々ありました。日が暮れますと、同僚たちと一緒に小さなテントに入り、付近にはいつも狼が出没し、厳寒の中で、目を閉じますと、そのまま凍死する恐れはあります。
劉さんは、「私は何時もパミール高原に足を運び、タジク族とキルギス族の人々とよく付き合うことから、家族のような親しい関係を持っています。彼らは私がドキュメンタリーを撮影する時も、あちこち案内してくれたり、私を自分の家に泊まらせたり、いろいろ手伝ってくれた。これら全ては、私の忘れられない思い出と精神面の支えとなった。このような人文資源を保存するため、自分の全てを投じても惜しくない」と述べました。
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