古事記と日本書紀
飛鳥浄御原大王・天武が命じた天皇家や豪族の記録を712年に稗田阿礼が暗記したものを太安麻侶が筆録したものが古事記だといいます。上巻は天地開闢から神武の父まで、中巻は神武から応神(天皇)まで、下巻は仁徳から推古(女性天皇)までとなっている。この書は不思議なことに公開されず、地下に潜っています。ですから中世まで公開されず、日本書紀を「ほんの片そば」と痛烈に批判した紫式部は読んでいないと思われまます。
「にほん紀などは片そばぞかし。これらにこそ道々しく詳しきことあらめ」
同時に、この飛鳥大王の時代680年代にはさらに大がかりな正史の編修が始められ、720年に完修しました。それが原『日本紀』で量的には古事記の数倍あり、全30巻、神話から神武を経て天武までを取り上げていて、現在、日本書紀とされています。
研究者林屋辰三郎氏(1903-1980)は古事記は大伴氏的記念碑と記し、日本紀は藤原氏的と評価していて、両者の著しい差異を指摘しました。日本書紀は推古女性天皇までの同時代を比べても量的に数倍もあります。
その理由は反新羅意識と仏教記事に集約できます。よく知られている「百済三書」を持ち出し、任那日本府を実在したかのように扱います。この百済亡命者にかかわる書物は創作の臭いの強いものです。
日本書紀はまとまりの悪い政治小説で半藤原記になっていて、虚構が多すぎるものです。第2次大戦後15年して岩波書店が出版した日本文学全集『日本書紀』上の解説で、解説は中国の『文選』の引用などをあげて、日本書紀は潤色が多いと書いています。これは鋭い指摘ですが、古代史学者は無視してしまったようです。
森 博達氏の画期的日本書紀批判
これに対し、中国語学者で中国史を学んだ森博達は日本書紀の中国文を分析し、『日本書紀の謎を解く』(中公新書―毎日出版文化賞)でどういう筆者がいたかを解明しました。つまり、中国語に堪能な者、ややできる者など、の分類で、その結果、全30巻のほとんどを中国系筆者α群と非中国系筆者β群に分けられ、例外が30巻の持統紀だとしました。つまり、β系の場合、22巻・推古紀では「十七条の憲法」など初歩的な漢文の誤りがあるという重要な指摘です。これは東京にあるという場合、「在東京」とすべきところを「有東京」とするなどの誤りを意味します。森氏はこの法則の発見に15年以上を費やしたとしていますが、文献史学において画期的な役割を果たしたと言っていいでしょう。が、文献史学者の反応は鈍いのが現状で中国側の検討が望まれます。
日本書紀は反新羅・藤原日本優越・原理主義で、19世紀末に蘇ったのです。その後の半世紀をこえる侵略史観の原本になったといわねばなりません。実に毒草の最たるものであります。
日本書紀編修の最終段階、唐は玄宗時代に入り、新興日本は2回目、15年ぶりの養老度遣唐使を送り出しました。奈良・平城京は藤原氏と反藤原の対決が激化していました。
豪族と技術集団
日本列島の古墳時代350年間は中国・朝鮮文献で見る限り、中央政権支配というよりも信仰を基礎にした渡来技術集団と在来の豪族集団の共同による群雄割拠の4世紀間でした。北部九州以東は物部・紀氏・秦氏らの集団が地域社会を支配、管理していたと見ることができます。北部九州の場合、隋書・倭国伝(通称)に従うならば1万戸ごとに山城を有していたと考えられる。瀬戸内南北(吉備・讃岐中心)も同様です。吉備地区の反関西意識は強烈で5世紀には巨大古墳、墳丘長4位と13位を築造する実力がありました。関西ヤマトに十分な対抗力を持っていた証明です。
とかく政治中心に歴史を見たがりますが、実際には下部構造の経済・技術集団が住民を動かします。その意味で徐福集団は最初の技術集団(テクノクラート)で長く列島社会で生き続けといえます。銅鐸―三角縁神獣鏡―武具―馬具―仏具、という流れに彼らの高い技術と新渡来集団との結合・共同を見ることができるでしょう。5世紀末には蘇我氏などの百済系豪族が関西で覇を競います。新開地です。
後世、815年、平安京(現京都)に都が誕生して間もないころに、嵯峨天皇の勅命によって氏族の在野の研究者、故白井良彦氏は秦氏が仲哀天皇8年に来倭したとあるのは正しく、中国人は血縁を大事にすると記しました。また、新羅からの渡来者が著しく少ないのは藤原氏が新羅を忌避した名残と考えられ、8世紀以降、新羅出自について緘口令が敷かれた可能性があるとしました(東大阪古代史研究会)。この新羅と徐福集団渡来の「言論統制」は徐々に緩和され、14世紀に北畠親房の『神皇正統記』は「7代孝霊天皇の御世、始皇帝、日本に長生不死の薬を求む」と記しています。北畠という愛国史家の正視した結果としておきましょう。
藤原不比等の影
日本書紀は編修代表が舎人親王となっていますが、実際には日本史上、最大の策士藤原不比等と考えて誤りはないでしょう。不比等は持統女性天皇の時代に草壁皇太子の親友ということで出世の糸口をつかみますが、一説には近江大王・天智の落とし児という話もあり、少年期には「史」の身分の山田に預けられたといいます。
余談ですが、私、壱岐の名は珍しい姓で、私の孫を入れても1億3千万のなかで1500人くらいのようです。
この新撰姓氏録では蕃別に入っていて、中国長安から来たとされ、劉
雍亥という名を記しています。一方、朝鮮海峡・壱岐島の国守で、万葉集では「雪」で記され、ほか伊吉、と書かれる例が多く、遣唐使、遣新羅紙、遣渤海使として数名が漢詩を残しています。
渡来系です。30代の初め、10人ほどの判事・ことわりの司のひとりとして登場し、700年には40歳です。
やがて大宝律令の制定に加わり、妻三千代と先妻のとの2児とともに後宮を支配、新興貴族として藤原時代数百年、現代史の1940年代の近衛首相まで含めれば1200年の最高権力者族に成長すます。
不比等の異常な反新羅・過激思想から、出自は朝鮮半島南部の新羅、加羅地区とされますが、これは6世紀以降の朝鮮半島での紛争地区を背負ってきたことになります。(金思燁『古代朝鮮語と日本語』朝日新聞社)。
不比等は同時に編修集団の反新羅思想を拡大することに尽力しました。編修には漢人、百済亡命者、九州倭国移住者が多数を占めていました。「百済三書」、百済記、百済新撰、百済本記など創作させました。しかし、稀代の策士は日本書紀を完全な「藤原紀」にはしなかったのです。曖昧にさせたのがずる賢さの極みです。
年代順にいえば、徐福集団と銅鐸を抹殺する、神話で藤原氏モデルを登場させ、その役割を書かせる、天照大神から孫へ、これは祖母・女性天皇から孫への禅譲で7世紀末の時代の要請で時あたかも大唐は武則天の時代だったのです。
さらに、関西ヤマトにおいて悠久の昔に建国したとする、ここは大事なところで、豪族を手なずけるための大義名分にほかなりません。神代から豪族の先祖が建国に貢献したとするものです。
後世の批判を思うと中国史料が障害になった例もありますが巧みに利用し、避ける方法を考案しました。倭の五王や隋書の日出づる処(国)の存在です。
白江の敗戦も九州の話ですが、これも曖昧にしますた。九州倭国は抹殺の最大の存在でした。
天皇名の和風(倭風)がちぐはぐなのは止むをえなかったとしたようで、オケ(仁賢)と天国排開広庭(欽明)など大差の諡号の矛盾も押し切りました。しかも欽明には本名が記されておらず。編修の時から130年前の「天皇」がです。この天皇の宮は18世紀の国学者・本居宣長がが「敷島の大和心を…」と歌った神聖な大和の枕詞敷島にさえなっているほどなのです。
こうして、日本紀は政治小説、半記録小説、半藤原紀として完修した。が、長い間、一部では購読が行われましたが、宮中以外に公開されなかったのです。近世のみならず、近現代の学者を幻惑し、中国の学者にもよくない影響を与えているのが、この「正史」です。
日本書紀は銅鐸、多数山城を語らず
日本紀の編集は奈良の飛鳥で始められ、藤原京で進められ、712年から平城京で完成へと向かいました。実に35年にわたる大事業でした。
すでに明らかにしたように徐福集団の渡来を黙殺したばかりか、その高度な技術の証明になる銅鐸を無視しました。銅鐸は稲作社会に燦然と輝き、美しく響く音響で住民を魅了し、2,3世紀と思われる大型銅鐸は東海地方と関西北部の琵琶湖南岸で製造されましたが、この事実も日本書紀は抹殺しました。
ただし、倭の五王については苦労してその音を借用して一字でも合わせるように努めましたが、近現代の学者も無駄な時間を使いました。讃、珍、斉、興、武の諸大王の当てはめですが、本来、讃は讃なのです。
さて、巨大古墳の時代がこの五王の時代で、あの巨大な墳墓を造営しながら、中国への朝貢が可能だったか、その経済力に疑問があります。日本書紀は南朝への朝貢については呉との交流を少し語るだけです。
しかも、北部九州、瀬戸内中央部の山城について日本書紀は悉く沈黙しています。その多くは6世紀には築造が始められているといえ、一部は5世紀の可能性があります。祭祀から逃げ城へ、次第に強化され、周辺の政治に変化をもたらします。
この山城のなかにも際立った山城があり、大野城と吉備・鬼ノ城で、ともにあたりを睥睨する400mの高地に存在する朝鮮式山城の典型です。大野城は大宰府の北に位置し、水城、水の城を従えています。
水城はいざというときに敵兵の防波堤になる2キロに及ぶ濠です。北部九州にはこのほか、基山と菊地地区に朝鮮式山城があることは紹介した通りです。
日本書紀は660年代の百済存亡の危機にあるときに、長門の城ほかを造らせたと書いていますが、2年や3年でできるものではないでしょう。未完の可能性があります。
このような山城はそれまでの山城の改修、補修の積み重ねと考えるべきかもしれません。1960年代から岡山県と大分県の民間放送が専門家とこれらの山城の調査をして、出版しました。岡山の場合、門脇禎二教授(当時)は、順次改修説を記しました。
なお、長崎県教委によれば対馬・金田城はC14鑑定で570年、620年、660年築造と出ているといいます。(内倉武久『大宰府は日本の首都だった』)。
古代美術の到達点・藤ノ木古墳
1980年代に発見された藤ノ木古墳は有名な法隆寺の西300メートルの円墳で、古来、陵山と呼ばれてきたといいます。この径50mの円墳から日
本中を騒がせる豪華な副葬品が出土し、1988年、毎日新聞社、朝日新聞社の順ですぐさま学術討論会が開かれました。その結果、出土品は朝鮮半島系のものが多いが、柱は北魏系と考えられました。
渡来系のなかでも複雑なデザインから仏教的中国的な要素があるといわれています。
この中国系とは例の鞍作止利(鳥)仏師の祖父・司馬達等の時代になります。
これまで縷々、説明してきたように、630年代、北魏滅亡時の亡命・流民の大波です。中国から列島への大量渡来の第3波にあたります。。しかも、北からだけでなく、梁僧は対岸の九州島へ、あるいは高句麗経由で関西へ、さらに遠く東北本州島へと伝道に足を伸ばしました。
実に信仰エネルギーとも呼ぶべき強い熱情を思わせるものです。
(続く)
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