北京オリンピックがあっという間に過ぎて閉幕しました。わずかの17日間は私たちに多くの喜びと感動を与えてくれましたね。メダルの争いなどはもちろん観戦の楽しみの一つですけど。国籍を問わず、選手たちは自分の夢に向かい合って頑張っている姿は、なかなか素敵だと思いますね。
もう一つの感動は、スポーツ界の人的交流です。たとえば、中国代表団には、多くの外国からの監督やコーチがいます。シンクロナイズドスイミングの井村コーチや、フェンシングのフランス人の監督、そして、男子バスケットや、野球の監督はアメリカ人です。中国代表団の好成績はこれら外国人監督やコーチの努力と密接に関わっていますね。一方、多くの中国人も外国チームの監督となりました。アメリカ女子バレーボールの監督は有名な郎平さん、そして、アメリカ女子体操のジョンソン選手のコーチも中国人の喬梁さんですね。また、飛び込みや卓球など、多くの中国人は外国の選手を指導して、スポーツの技術や楽しみを分かち合っていますね。
北京オリンピックはわずか17日間で終わったんですけど、われわれにくれた美しい思い出は長く続くでしょうね。今週の番組では、北京オリンピックでの感動的な物語を一緒にフラッシュバックしましょう。
偉大な母親ーー33歳の女子体操選手
北京オリンピックの聖火台に点火した聖火リレーの最終ランナー、かつて体操選手の李寧さんが設立した李寧基金がこのほど、ドイツの体操選手オクサナ・チュソビチナさんに2万ユーロを贈呈しました。このお金は、チュソビチナ選手の白血病に苦しむ息子の治療に使われるということです。
チュソビチナ選手はすでに33歳で、北京オリンピックで20歳近くも若い選手たちと競い、銀メダルという栄光を勝ち取りました。
チュソビチナ選手は1992年のバルセロナ五輪に、独立国家共同体(CIS)の代表選手として参加し、女子団体で金メダルを獲得しました。1996年、2000年、2004年には、ウズベキスタン代表として五輪に出場し、少しでも多くの賞金を稼ぎ、白血病にかかった息子の治療に充てたいという気持ちで、33歳まで体操を続けてきました。自分の息子に少しでもよい治療条件を整えるために、チュソビチナ選手は故郷を離れ、ドイツに移住し、北京五輪ではドイツを代表して参加しました。
本当に偉大な母親ですね。すべての人に尊敬されています。オリンピックは国境を越えた人類共通の素晴らしい精神を表していますね。メダルよりかなり貴重なものはいっぱいあります。4年後のロンドンオリンピックでも、チュソビチナ選手の姿が見られるかもしれません。オリンピックはまさに夢と奇跡を見せる舞台ですから。
奇跡の勝利ーー難病を乗り越えたチャンピォン
北京オリンピックから新たな五輪種目となった男子オープンウォーターの決勝で、オランダのマーテン・ヴァンデル・ウェイデン選手が初の金メダルを手にしました。しかも、ウェイデン選手は白血病を克服して五輪に挑戦した選手です。
ウェイデンさんは10代で水泳の才能を示し、1999年の欧州ユース選手権と2000年のオープンウォーター選手権にも出場したことがあります。しかし、2001年、20歳のウェイデンさんは白血病と診断されました。幸いなことに、骨髄幹細胞の移植手術が成功し、選手として復帰しました。「白血病が教えてくれたのは、何でも一歩一歩やっていかなければならないということ、我慢強さが必要ということだ」とウェイデンさんが語りました。現在、ウェイデンさんは公益活動にも熱心に取り組んでいます。
白血病を克服した選手はオリンピックのチャンピオンになること、しかも「競泳のマラソン」と呼ばれる10kmのオープンウォータースイミングで優勝したことは、本当に奇跡です。難病にかかっても、生きていく希望を失わず、自分の夢を諦めないウェイデン選手は本当に尊敬されるべきですね。われわれ健康な人はさらに仕事や生活を愛して、よくスポーツに参加して体を大切にしなければなりません。
愛の力ーー「スーザン、僕はあなたをずっと愛しているんだ」
8月19日に行われた男子重量挙げ105キロ級の決勝で、ドイツのマティアス・シタイナ選手が優勝しました。授賞式で、シタイナ選手は亡くなった妻の写真をかたく握って涙を流したシーンは多くの人々を感動させました。
去年7月、シタイナ選手の奥さんは交通事故で亡くなり、シタイナ選手が大きなショックを受けました。しかし、奥さんの夢はシタイナ選手が北京オリンピックで優勝することです。その夢をかなえるため、シタイナ選手は悲しみを隠しながら、奥さんへの愛を込めて、厳しい練習に取り組みました。その夢は北京オリンピックで現実になったとき、26歳のシタイナ選手はもう涙を隠せませんでした。
「僕は迷信の人ではない。でも、今日、僕の妻、スーザンはずっと僕を見つめているんだ。スーザンは僕に勇気を与えてくれた。ありがとう、スーザン。僕はあなたをずっと愛しているんだよ」
これはドイツが16年来初めて獲得したオリンピックの重量挙げの金メダルです。愛は奇跡を作りました。
五輪に出場できて大満足ーー世界の尊厳を博したイラク選手
イラク代表団は北京オリンピック開会まで10日間で出場の資格を得ました。長い間の戦乱のせいで、イラク選手団はちゃんとしたユニホームさえありませんでした。カヌーの競技場で、イラクの選手は古いTシャツを着て出場しました。綺麗な新しいユニホームがなくても、彼らはオリンピックの舞台で自分の祖国を代表して一所懸命頑張って、世界の尊敬を得ました。
陸上競技の女子100mに出場するイラクのダナ・フセイン選手はぼろぼろの中古のスパイクをはいて出場しました。
「北京オリンピックに出場できて、大満足です。イラクで訓練していたとき、2回も射殺されそうな目にあいました。一部の過激派は女性がオリンピックのような大会に出場することに反対していますから。でも、私は怖くない。諦めるなんか一度も考えていない。でも、北京に来る前、イラク代表団が出場の資格が取り消されたニュースを聞いて、4時間も泣きました。4年後のロンドン大会でまたチャンスがあると家族や親友に言われました。しかし、イラクの情勢から見ると、2012年のロンドン大会まで、私がまだ生きているのか、自分にも分かりませんよ」
フセイン選手のことが報道されてから、多くの中国人は彼女に新しいスパイクやプレゼントを贈りました。北京を離れれる前、フセイン選手は涙を押さえずに語りました。
「中国人から暖かい友情をもらった。本当にありがとう。皆さんがバグダッドを訪れるときには、ぜひ連絡ください。何か恩返しをしたいと思っていますから」
一本の足でも、五輪の夢を諦めない
8月20日に行われた北京オリンピック女子オープンウォータースイミング10kmの決勝で、南アフリカのナタリ・ドゥイト選手は16位でゴールしました。しかし、チャンピォンよりも多くの歓声を得ました。というのは、ドゥイト選手は一本の足で10キロメートルも泳いだからです。
ドゥイト選手は南アフリカで競泳のスターとして注目を集めていました。しかし、2004年アテネオリンピックの準備で忙しい中、交通事故に遭い、左足を失いました。
「落ち込んだり、諦めたりすることも考えました。でも、それで人生のすべてが終わりだと意識して、いや、そうなるのはいやだと、改めて自分の夢を探しました」
治療が一段落についてから、ドゥイト選手はプールに戻りました。そして、2004年のアテネパラリンピックに出場し、5個の金メダルを獲得しました。
2008年の北京オリンピック、「競泳のマラソン」と呼ばれるオープンウォータースイミング10kmは初めて競技種目となりました。ドゥイト選手は出場資格を得て、みなと同じスタートラインに立ち、たった一本の足で10キロを泳ぎきりました。そして、24人のうち、ドゥイト選手は第16位となり、1位のロシア選手よりわずか1分22秒の差しかありません。
これから、ドゥイト選手は北京パラリンピックにも出場します。彼女がいい成績を上げるよう心から願っています。
祖国好!ーー50歳の復帰
北京オリンピックフェンシング女子フル−レに出場した選手のうち、カナダを代表した50歳のラン菊杰選手はみんなの注目を集めています。
1984年のロサンゼルス大会で、ラン菊杰選手は中国フェンシング史上初めてのオリンピック金メダルを獲得しました。その後、カナダに移住したランさんは自分のスポーツクラブを経営し、普通の暮らしをしていました。しかし、7年前、北京がオリンピックの主催権を得たとき、ラン菊杰さんは興奮し、「祖国の土地で行われる初めてのオリンピックに参加したい」と改めてオリンピックへの夢に燃やしました。
北京オリンピックの出場資格を得るため、ラン菊杰さんは厳しい訓練を始め、世界各地を回って各種の選手権競技に出場しました。そして、ラン菊杰さんは北アメリカ州第2位の成績でオリンピック出場の資格を得て、カナダ選手として北京オリンピックに現れました。
残念ながら、50歳のラン菊杰さんは2次予選で負けてしまいましたが、競技が終ってから、 さんは大きなスローガンを出して現場に観客に感謝しました。そのスローガンに三つの赤文字が書かれています。「祖国好」、(祖国よ、こんにちは)!
北京オリンピックがあっという間に過ぎてしまいました。しかし、北京オリンピックがわれわれにくれた楽しみ、喜び、感動的な瞬間は長く長く続くでしょう。オリンピックで、世界各地の人々は一堂に会して、夢をかなえたり分かち合ったりして、また、新しい夢を作っています。(Lin)
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