子路
孔子の弟子たちは、「仁」や「孝行」、「政治」、「言語」など、人によってそれぞれ長けたところが異なります。子路が政界で活躍していた人物の一人です。子路は姓は仲、名は由(ゆう)、字は子路といいます。また、別の字は季路ともいいます。孔子より9歳年下です。孔子に最も愛された弟子が顔回というなら、最も可愛がられたのはこちら、子路です。子路の生活を名詞や形容詞でまとめて見ますと、勇敢や単純、一本気などでしょう。
子路は貧しい家に生まれ、若いころは町の暴れん坊でした。孔子と始めて会った時、剣を使い暴力を振舞ったと言われています。孔子は礼儀で子路を感動させました。その後、子路は孔子のそばでボディーガード的な役割を果たしていました。儒家である孔子派の中で異色な存在ですね。愉快な豪傑って感じでしょうか。子路が一番早く孔子についた人間ですから、弟子といっても実は孔子の親友のような存在でもあります。孔子にはよく叱られますが、逆に孔子に対してずけずけとものを言ったり、言葉を返したりしたことがあります。
子路の言行は「論語」では、38回も出ています。孔子の弟子の中で後世に大きな影響を及ぼした一人です。ある意味では、「論語」を人間味豊かに彩るのが子路の存在です。この言葉から子路のキャラクターが少し垣間見れると思います。「願わくは車馬衣裘(いきゅう)で、朋友と共にし、これを敝(やぶ)りて憾(うら)みなからん。」これは先生である孔子に志を聞かれた時の、子路の答えです。「車や馬や着るものや毛皮の外套を友人と一緒に使いたい。それらがぼろぼろに使われたり、壊れたりしても気にしません。男気があってなかなか頼もしいですね。友人との関係を重視し、自分が持っている財産を他人と分かち合いたい。友人としては最高の存在ですね。
ところが、子路のような人は頼もしい反面、ボキッと折れてしまう脆さを持っています。その性格を知り尽くしていた孔子はとても心配して、「由のような男はまともな死に方ができないだろう」と漏らしたことがあります。結局、それは予言のように的中してしまいました。孔子が心配した通り、子路は自分が仕えた衛の国で内乱に巻き込まれ、非業の死を迎えました。64歳でした。昔の戦乱の時代なら珍しい死に方ではありませんけど、「仁」とか「礼」を重んじて教育の普及活動を行った孔子の弟子の中では、人々の印象に深く残る独特な存在だったでしょうね。
「論語」の記述で、子路のキャラクターや言動はとても身近になって、イキイキとしています。きっと、歴代には子路のファンが多くいるのではないでしょうか。
子貢
続いて、孔子のもう一人の高弟、子貢をご紹介したいと思います。子貢、前回顔回をご紹介した時にも出てきましたね。顔回は「一を聞いて十を知る」。自分は「一を聞いて二を知る」と話したことがあります。子貢は字です。姓は端木、名は賜(し)です。衛の国の裕福な商人の家に生まれました。孔子より31歳年下です。
子貢も子路と同じように、いささか異色な存在です。頭が切れて、弁舌が達者です。これだけなら孔子の弟子には他にも口達者な人もいますが、その出身の影響なのでしょうか、商才に優れていて、得意の弁舌をもって財をなしていました。貧しい弟子が多い中、とてもリッチな存在です。孔子が政治的に失敗して弟子たちと諸国を放浪した時も、諸侯に口添えしたり金銭的にバックアップしていたらしいですが、今の観点で言いますと、頭が良くて、財産もいっぱい持っている。最高じゃないですか!
「論語」では、子路に並んで、最も登場シーンの多かった一人です。司馬遷の著書『史記・仲尼弟子(ちゅうじていし)列伝』においても、圧倒的に長い記述で紹介されたのは子貢です。司馬遷の「史記」によりますと、子貢は魯や斉の宰相を歴任したともされています。さらに、孔子の死後、弟子たちの実質的な取りまとめ役でした。孔子の学問を広めるのに大きな役割を果たしました。
孔子の弟子の中で、子貢は学問と実践を最もうまく結びつけた第一人者だと思います。「論語」には、孔子と子貢の問答が多く載せられています。そこから子貢の弁舌がどれほど上手か分かります。こんな問答があります。子貢(しこう)曰(い)はく、「貧(まづ)しうして諂(へつら)ふこと無(な)く、富(と)んで驕(おご)ること無(な)きは如何(いかん)。」子(し)曰(い)はく、「可(か)なり、未(いま)だ貧(まづ)しうして楽(たの)しみ、富(と)んで礼(れい)を好(この)む者(もの)に若(し)かざるなり。」子貢(しこう)曰(い)はく、「詩(し)に云(い)はく、『切(き)るが如(ごと)く磋(みが)くが如(ごと)く、琢(う)つが如(ごと)く磨(と)ぐが如(ごと)し。』と。其(そ)れ斯(これ)を之(こ)れ謂(い)ふか。」子(し)曰(い)はく、「賜(し)や、始(はじ)めて与(とも)に詩(し)を言(い)ふべきのみ。これに往(おう)を告(つ)げて來(らい)を知(し)る者(もの)なり。」
これは現代語に訳しますと、子貢は聞きました。「貧乏であっても諂(へつら)わず、金持ちであっても驕(おご)り高ぶらないならば、いかがでございましょう。」孔子はこう答えました。「よろしい。しかし、貧乏しても泰然自若として楽しんでおり、金持ちでも礼を好む者には及ばない。」子貢は話しました。「詩経に『(骨や角を細工する者が)切るが如く、磋(みが)くが如く、(玉や石を細工する者が)琢(う)つが如く、磨(と)ぐが如し(美しい上にも美しくするようにする)』と歌っていますが、まさにこのことを言ったものですね。」孔子の話です。「子貢よ、それでこそ始めてともに詩経の話ができるというものだ。おまえは過去のことを告げれば未来のことを知る者だから。」
貧乏で人に諂うことがなく、金持ちで驕らなくとも、まだ充分ではなく、まだ貧富という境界線を超越してはいません。貧乏でも道を楽しみ、金持ちでも礼を好むようにならなければいけません。これは孔子が伝えようとする思想ですね。一方、子貢は「詩経」から切磋琢磨という言葉を引用して、孔子の教えを認めた上で、さらにまだ言わなかったことを理解しています。過去のことを告げれば未来のことを知る。話の前半をすれば、もう後半まで分かってくれている。孔子が子貢に対する評価もなかなか高いものですね。
さらに、子貢に対する評価について、孔子と子貢の間ではこんな問答が行われました。子貢、問うて曰く、賜(し)や何如(いかん)。子曰く、汝(なんじ)は器(うつわ)なり。曰く、何の器ぞや。曰く、瑚璉(これん)なり。子貢が孔子に尋ねて言いました。「私はいかがでしょう?」孔子は『お前は器だ』と言いました。子貢は「何の器でしょうか?」と聞いたら、孔子は言いました。「宗廟のお供えを盛り付ける瑚璉の器だよ。」
瑚璉とは、諸侯が宗廟の祭祀に当たってお供え用に用いる器。玉などで飾られる貴重なものです。こんな最上級の器で、子貢が治国に相応しい人間だと褒めていたわけですね。しかしながら、孔子は他の場で、君子なのかどうかを測る大きな基準として、「君子は器ならず」と発言したことがあります。君子は大きさや形の決まった器であってはいけない。その言動や知識、働きは一つに偏らず、限りなく幅広く自由でなくてはならないという意味です。どんなに高級でも、あなたは器だと話した瞬間に、子貢は少し失望したでしょう。私は器ってことは、まだ先生が言っている君子じゃないの?だからさらに追及したんですね。「器だとしたら、どのような器ですか」と。
孔子は才気抜群の子貢の実力を十分認めていると同時に、「あなたはまだ完璧ではないよ。自信過剰にならないように」と少し戒める気持ちで話をしたのではないでしょうか。
当時、諸国では「子貢は孔子を超えている」と度々言われました。もちろん、その中で、孔子をおとしめるために子貢を持ち上げた人がいると思いますが、子貢の影響力がどれほど大きいか少し分かりますね。そんな話を聞くたびに、子貢は巧みなたとえを用いて孔子を賞賛することで反論していましたね。こんな言い伝えがあります。
「屋敷の塀に例えるなら、私の家の塀の高さは肩の高さぐらいでしょう。ですから、屋敷の中の小奇麗な様子が窺えます。しかしながら、夫子の家の塀は高すぎて、ちゃんと門から見ないと中の素晴らしい建物や召使の様子は知ることはできないでしょう。」即ち、私の見解や道徳は浅いので、みんなにとって見やすいですが、先生の知識は奥深くて、なかなか全貌が見えず、一般人が窺い知ることではありません。実に弁舌が上手ですね。これだけでなく、子貢は文学や政治、ビジネスなどいくつかの分野で能力を発揮していて、名実共に孔子の高弟の一人です。
このように、孔子とその弟子の言行録である「論語」は、その伝えようとする思想だけでなく、文学性や物語性もあります。だからこそ、孔子のその高弟たちの姿やキャラクターは2500年たってもいきいきとしているんです。皆さん、前回ご紹介した顔回も含めて、孔子のもっとも有名な3人の弟子、顔回、子路と子貢、あなたが一番好きなのは誰ですか?
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