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追悼 高倉健――「杜丘」の神話と啓示

2014-12-04 16:00:30     cri    

王衆一=文

東洋的な男らしさで魅了

 11月18日午前、北京の空は晴れ渡っていた。「速報:日本の大スター高倉健死去」というWeChat(日本のLINEに似たソーシャル・ネットワーク・サービス)の一報が目に飛び込んできた。ぼんやりと窓の外の澄み切った青空を眺めると、36年前の記憶の原点が脳裏に蘇ってきて、今でもそらんじているセリフが耳元で聞こえた気がした。「見たまえ、あの青い空を。歩いていくんだ。君はあの青い空に溶け込むことができる。さあ、行くんだ!」


高倉健とチャン・イーモウ(張芸謀)監督

 1970年代末から80年代初頭を過ごした人なら「杜丘」の名を憶えているはずだ。この時代の中国は改革開放が始まったばかりで、中日平和友好条約が締結され両国は「蜜月時代」を迎えていた。政府間文化交流として、中国で初めての「日本映画週間」が多数の大都市で行われ、戦争時代の日本の女性の悲惨な運命の物語『サンダカン八番娼館 望郷』(中国公開タイトル『望郷』)、北海道の広い大地に生きる生命を描いたドキュンタリー『キタキツネ物語』(同『狐狸的故事』)、1970年代初期日本の高度経済成長期を舞台に無実の罪を着せられた男が正義を回復するために戦う『君よ憤怒の河を渉れ』(同『追捕』)などの作品を通じて、膨大な人々が東の隣国を視覚に入れた。「杜丘」はこの3作品の中でも最も影響の大きかった『追捕』の主人公で、寡黙で毅然とした見かけの中に脈々と優しい心を持つ東洋の男らしさのイメージを持つ彼は、無数の中国の青年男女を魅了した。彼を演じた俳優こそ高倉健だった。

高倉健はあっという間に中国で有名になった。『追捕』は中国で現在に至るまでどのハリウッド映画も成し得なかった興行記録を持っている。約1億人の観衆が劇場に足を運び、銀幕の中の「杜丘」に心服し、高倉健独特の演技のとりこになったのだ。

『追捕』が中国映画史上の「神話」となったのは、映画そのものだけによるものではない。日本ではこの作品を知らない人も多く、たかだか1本の商業娯楽映画に過ぎないが、中国でこれほど多くのセンセーションを巻き起こした原因はどこにあるのだろうか?

当時の中国は文化大革命が終わって間もなく、観衆は堅苦しい教訓的映画の「高大全」(大柄で心が広く全力で人民のために尽くす、パーフェクトなヒーロー)式の英雄を見飽きており、「杜丘」はちょうどこのニーズの空白を埋めることになった。高倉健はフランスの『死にゆく者への調べ』(クロード・ピノトー監督、リノ・バンチュラ主演、1973年)の主人公とも、旧ユーゴスラビア映画『瓦爾特保衛薩拉熱窩』(『Walter defends Sarajevo』、1972年)のワルターとも違い、かつて目にしたことがなかった東洋の男らしい男だった。高倉健と中野良子が演じた大胆で明快な愛情も、堅苦しい愛情をテーマにした国産映画を見慣れた若い観衆により本来的な男女の愛情を感じさせた。映画の舞台は、にぎやかな東京の新宿であり、また北海道の広々とした山河だった。戦後の高度に経済成長した東京と、魅力的な自然景観の北海道は、人々の日本に対するイメージを一変させた。そして、森の中でのクマとの対決、飛行機を操縦しての逃亡、馬に乗って危機を脱出するなどのシーンや、歌詞のないスキャットの挿入曲、叙事的で緊張感ある映画音楽などの娯楽テクニックは、刺激的要素に欠けた国産映画を見慣れた中国の観衆たちの耳目を一新した。





『君よ憤怒の河を渉れ』(同『追捕』)のポスター

中日関係発展に果たした役割

 『追捕』の中国での上映は、人々に日本に対するより全面的な認識を持たせた。戦後日本のイメージはこれによって改善されたが、それは民間レベルでの好感度上昇において何者にも代えがたい役割を果たした。

 高倉健と原田芳雄の極めてクールな扮装は流行となり、真由美を演じた中野良子は中国では「真優美」(本当に美しい)と呼ばれ、田中邦衛が演じた横路敬二(精神病を装う登場人物)は「相声」(漫才)の題材となって世の中に知られ、うすのろを意味する1980年代の流行語となった。

 当時、1970年代の日本では社会運動が下火となり、法治への回帰の中でこの作品が撮影されたが、この題材はちょうど当時の中国が混乱が静まる時期、冤罪やでっち上げ、誤審からの名誉回復という時代を背景に共鳴を呼び、「傷痕文学」(文化大革命時代に受けた悲惨な境遇を描く文学)と比較しても、より多くの観衆の注目を集めた。物語には忘れ難いシーンがある。真由美が馬を駆って新宿西口を疾走し、警察に幾重にも包囲された杜丘を救い出すプロットだ。機動隊が身の丈ほどもある盾で馬列を阻止しようとするシーンは、まさに1970年代新宿西口一帯の猛烈な市民運動と機動隊の対峙を暗喩する描写だった。

 何年も後になって中国中央テレビ局6チャンネル(映画専門チャンネル)で『追捕』のほぼ完全なバージョンが放送された時、カット・シーンの謎が白日の下にさらされた。実は1978年上映時には、当時中国の国情にふさわしくないとして前後20分余りにわたるカットが行われていたのだ。完全版で、杜丘は最後に検察院と和解しており、法治への回帰という寓意が込められていた。このバージョンの公開に対して私たちは、より全面的に『追捕』という映画を理解し、同時に私たち社会の寛容さと進歩への喜びも感じた。

 映画本来のタイトルは『君よ憤怒の河を渉れ』だが、当時の観衆のために比較的直感的な『追捕』というタイトルに改訳された。現在ならさらに良い中国語版タイトルも考えられそうだ、例えば『怒海飛渡』といった具合に。

 『追捕』という作品と当時の中日間の友好的雰囲気が、高倉健に大きな業績を与えた。そして、その後彼は山田洋次監督の『遙かなる山の呼び声』(中国公開タイトル『遠山的呼喚』)や『幸福の黄色いハンカチ』(同『幸福的黄手帕』)の素晴らしい演技で、中国の観衆にとっての地位をさらに強固なものとした。中国の一般観衆が日本の男優を論じる時に、高倉健は最も優れた俳優ではなく、唯一の俳優だ――この時期に演技と知名度において彼に劣るものではなかった多くの俳優たちには不公平かもしれないが。高倉健の成功はまさに中日の友好的雰囲気の賜物だったのだ。



『幸福の黄色いハンカチ』(同『幸福的黄手帕』)のポスター

『遙かなる山の呼び声』(中国公開タイトル『遠山的呼喚』)のポスター


中国の大監督にも影響


 『追捕』と「杜丘」に対する中国の人々の熱い思いは長く続き、その影響の余韻は衰え知らずだった。この作品以前、中国には正義の人物が逃亡するテーマのサスペンス映画はなく、その後『追捕』を踏襲したり参考にしたりする試みが見られるようになった。『四零五謀殺案』(沈耀庭監督、1980年)や『主犯在你身辺』(汪孟淵監督、1985年)に『追捕』を参考にした痕跡が見られることを説明するのに多くの言葉を費やす必要はない。『戴手銬的旅客』(于洋監督・主演、1980年)は類型としての試みで、『追捕』の影響が至るところに見られる。主演の于洋もこれによって以前の『火紅的年代』(傅超武・孫永平・兪仲英監督、1974年)の趙四海のような「高大全」式の英雄から「杜丘」のような孤独な英雄への転身を果たした。

 フォン・シャオガン(馮小剛)監督の『非誠勿擾』(日本公開時のタイトルは『狙った恋の落とし方。』、2008年)が中国で大ヒットし、北海道に中国からの観光客が激増した後、日本の各地方自治体がこぞってこのモデルを再現しようとした。しかし事実上この映画の成功について『追捕』『狐狸的故事』『遠山的呼喚』『幸福的黄手帕』などの作品、ひいては高倉健が1980年代に中国の映画ファンに植え付けた北海道の素晴らしいイメージが持続的に発酵したという要素を軽視することはできない。『非誠勿擾』の主人公カップルが草の上でクマのぬいぐるみで戯れるのは、まさに『追捕』で杜丘がクマから真由美を救ったプロットへのオマージュだった。労少なくして多くを得た『非誠勿擾』は、実は他の場所では複製しようがなかったのだ。

 1990年代以後、中日両国それぞれの発展や消長は、互いの民間感情をより複雑、多元的にしていった。漫画やアニメに夢中な中国の若い世代の目には、北野武のような死に向かっていく「クールさ」がより敬慕すべきものに映っている。さらには、蒼井そらが中国で一気に有名になるという特別な状況さえ出現している。「杜丘」と『追捕』は古い世代の思い出になってしまったのかもしれない。

 高倉健の映画を見て育ったチャン・イーモウ(張芸謀)監督が高倉健に合わせて作った物語『千里走単騎』(日本公開タイトルは『単騎、千里を走る。』、2005年)を撮影することを決定した――これ以前にチャン監督は『英雄(HERO)』(2002年)で、ジェット・リー(李連杰)が演じた主人公に当初高倉健を起用しようとして断られたことがあったが、高倉健は『千里走単騎』の脚本とチャン監督の命がけの心構えに打たれ、ついに出演を承諾した。

『千里走単騎』(『単騎、千里を走る。』)のポスター

 高倉健は、レベルの高い脇役と呼応してこそ演技を余すところなく披露できるタイプの俳優であり、原田芳雄や倍賞千恵子こそがそうした共演者だ。『千里走単騎』では高倉健以外はみなアマチュア俳優で、このため公平に言って、この映画は脇役との間で形成されるテンションに欠け、彼の演技が十分に発揮されているとは言えない。しかし、撮影時のエピソードは中国の観衆にこの「男神」の人としての魅力を感じさせた。70歳を過ぎた高倉健は撮影現場でまったく大物ぶらず、最後の瞬間まで毎日皆と共に仕事に立ち続けた。3日間現場で彼に日傘を差し掛けた農民工に、彼は自分のしていた腕時計を記念として贈った。彼のプロ意識、人に接する態度の細部から人々は彼の演技者としての品性を見た。2005年にこの作品が中国で公開された時、「杜丘」と『追捕』の思い出は『千里走単騎』のセールスポイントになり、このため多くの人が映画館に足を運んだ。そして、高倉健は少しもおろそかにせず演技し、彼のために訪れた観衆をまた感動させたのだった。

 「杜丘」は高倉健の中国での成功の原点であり、この後人々はどう高倉健を論じるにも、常に彼と「杜丘」を結びつけて語った。そして「杜丘」と『追捕』の、時間がたつほどに新鮮な思い出は中日両国人民の魂の接着剤となり、いかに月日が経とうとも、いかに中日関係の発展が困難や曲折に陥ろうとも、これらのエピソードは私たちに素晴らしい思い出と未来に対する希望を与えてくれている。これこそが文化の力であり、これこそが「杜丘」と『追捕』が一人の俳優、一つの映画作品を超越した力なのだ。

 83歳の「杜丘」は青い空に溶け込み、天国に向かった。天国の映画館でも、高倉健は人をとりこにする魅力を放っているに違いない。さようなら、杜丘! 安らかに、高倉健!

 人民中国インターネット版より

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