日本軍は上海を占領した後、中国の抵抗に"懲罰"を加えるため、当時中国の首都だった南京への攻撃を決めた。1937年12月1日、日本軍大本営は「大陸第8号令」を下し、華中方面軍が海軍と合同して3つのルートに分かれて南京に攻めた。
蒋介石氏は唐生智氏を首都護衛部隊の司令官に任命し、南京防衛戦の準備に取り組んでいた。その所轄部隊は主に上海の戦場から撤退した残兵たちで、教導総隊などの新鋭軍もいた。12月の初め、日本軍は相次いで鎮江、句容、溧水を占領し、南京の周辺地区や外堀の防御陣地を突入して南京城に迫り、中国の護衛軍は日本軍と空前の激戦を繰り広げた。7日、日本軍の松井石根司令官は空中から唐生智司令官宛ての降伏勧告を投下したが、唐司令官はそれを顧みることなく、一寸の領土も放棄せず、陣地を死守するよう各部隊に命令した。しかし敵との勢力の差は余りにも大きすぎたため、護衛部隊は必死に抵抗したが、南京の各城門は相次いで日本軍に攻められ、雨花台1ヵ所の防衛陣地だけで6000人以上の護衛兵全員が犠牲となった。
12月12日、唐生智司令官は蒋介石氏の命令を受け、護衛軍の撤退を命じたが、多くは撤退に間に合わず、城内に留まり続け、日本軍によって虐殺された。13日、南京が堕ち、日本軍は公然と悲惨な南京大虐殺を繰り広げたのだ。(09/16 Lin)
南京防衛戦の関連資料
1937年11月25日、蒋介石氏による第三、第七戦区及び首都護衛戦闘の序列電報(中国第二歴史公文書館提供)
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