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第六話 忻口戦役

2014-09-14 15:34:51     cri    
 1937年9月末、日本軍第5師団や関東軍の一部が、雁門関から平型関までの内長城における中国軍の防衛線を破り、太原へ向けて進んでいた。中国第二戦区司令部は忻口地区で防衛戦を実施することを決定し、戦区部隊を右路軍、中央軍、左路軍、総予備隊に分けて、それぞれ朱徳八路軍総司令官や、国民党将領の衛立煌、楊愛源、傅作義が指揮に当たった。そのうち、朱徳総司令官が率いた右路軍は八路軍のほかに国民党軍の第73師、第101師、新編第2師が含まれた。

 10月13日、日本軍は忻口を守る中国軍の防衛陣地に対して攻撃をしはじめた。中国軍は必死になって抵抗し、陣地を失ったり、奪回したりして戦闘が非常に激しかった。連日の苦戦で、中国軍は多くの日本軍を殲滅したが、自らも多くの死傷者がでた。郝夢齢、姜玉貞らの将官は国のために命を失った。

 忻口戦役で、八路軍第115師と第120師は敵の両翼や後方に対して、攻撃を繰り返した。このため日本軍の後方が大きな脅威を受け、食糧と弾薬を即時に補給することができなかった。また、八路軍第129師は前後して七亘村、広陽、黄涯底などの戦闘に参加し、勝利を勝ち取った。これらの戦闘は国民党軍の作戦にも役立った。

 忻口戦役は1カ月余り続き、抗日戦争の初めごろ華北戦場における最大かつ最も激しかった戦役となった。中国軍の死傷者は10万人に上り、日本軍を2万人余り殲滅した。忻口戦役は国民党と共産党の軍隊が協力しあって日本軍と戦った戦争となり、共産党は作戦方針について意見や提案を出しただけでなく、八路軍が作戦に参加し国民党軍の陣地防衛作戦を大いに支援した。

1937年10月5日、八路軍の作戦方針が閻錫山、衛立煌の同意を得たことに関して
周恩来が毛沢東、朱徳、彭徳懐に送った電報。(中央公文書館提供)

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