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第三話 平型関の戦いに関する説明

2014-09-11 13:43:29     cri    

 1937年9月中、下旬、津浦鉄道、平漢鉄道に沿って南下した日本軍は、それぞれ河北省の滄州、保定などを占領した。平綏鉄道に沿って進んだ日本軍は山西省北部に入り、天鎮、広霊、大同を占領した。閻鍚山が率いた晋綏軍は、雁門関方面に向けて次々と撤退した。五台に入って駐屯した八路軍本部は、第120師が西から雁門関に駆けつけ救援し、第115師は東から友軍に協力して作戦を実施、霊丘から平型関に増援する敵に対し、攻撃するよう指示した。9月22日、日本軍第5師団の一部が先に霊丘から平型関の方面へ向けて侵攻し、23と24の両日、平型関の正面と団城口で、中国の守備軍と激戦を繰り広げた。9月24日、第115師の主力は雨の中、冉庄から平型関の北東部へ向けて進んだ後、伏兵を置いた。9月25日朝、日本軍第5師団第21旅団の一部は、八路軍が待ち伏せした地域に入った。八路軍が突然、猛烈な攻撃を行うとともに、接近戦と山地を生かした作戦で、混乱に陥った日本軍を分断、包囲した。白兵戦の結果、敵軍1000人あまりを殲滅し、敵の自動車100台あまりを破壊。そのほか、輜重(しちょう)と武器を奪取した。9月24日から25日にかけて、封じ込めや狙撃を担当した第115師独立団は、涞源、霊丘間を遮断し、数回に及ぶ日本軍の増援部隊の突撃を退け、敵軍300人あまりを殲滅した。

 平型関の戦いは、華北の戦場において、中国軍が積極的に敵を探し出し、殲滅した初の勝利で、地の利を生かした防御作戦における正面決戦に打ち勝った。この戦いは日本軍には勝てないという神話を打ち破り、全国の人々の心を奮い立たせ、共産党と八路軍の人気を高めた。(殷、山下)


1937年9月25日、朱徳、彭徳懐が平型関の戦況について、賀龍、蕭克、劉伯承、徐向前、および毛沢東と各軍に報告するために送った電報(中央公文書館提供)

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