会員登録

故郷の春 【吉林大学外国語学院 李菏華】

2013-09-26 15:14:59     cri    

 半年も雪に覆われている長春の春は、まるで恥ずかしがっている少女のようで、みんなが期待しているがなかなかこない。最近はようやく暖かさを増してきたので、人々はもうてっきり春になったと思っていたが、一雨でまた冬に戻ったようだ。長春に来てもう一年半経った。遅くて肌寒いここ長春の春と比べれば、私はやはり情熱がほとばしって活力に満ちている故郷の春が好きだし懐かしい。

 今、故郷は花の便りに心を弾ませるころになったに違いない。故郷は南のほうにあるから、三月になると花の蕾が美しい姿を見せるようになる。四月、村のところどころが桃や李や杏などの花で飾られるし、燕も屋根や電線の上に止まって、ピーチクパーチクと鳴き、非常にきれいで、にぎやかだ。特に、春は子供の私たちにとって、花や香りの世界だけでなく、楽しげな笑い声や希望に満ちている世界でもあった。そして、幼いころのことは今でもはっきりと覚えている。

 私の村は山に囲まれている。よく山へ行って、竹の子を採ったり、畑から取ってきたさつまいもを焼いたりしていた。春にしか出てこない珍しい虫を捕まえるために、友達を何人か誘って、授業をサボって出かけ親に叱られることも日常茶飯事だった。しかし、親が怒ろうと怒るまいと、当時の私たちはあまり気にせず、腕白だった私たちはずっと夢のある春の世界に溶け込んでいた。四月、私たちが一番期待していたのは母が蓬と小麦粉で作ってくれるもちを食べることであった。母が天気のいい日に私と弟を連れて、田のあぜや川の岸へ柔らかい蓬を摘みに行った。私と弟が、つまらなそうにしていたり、蝶に気をとられてきちんと摘んでいないとき母は「摘まないと、夜はもちを作らないよ」と怒ったように言った。それから、いやいやながらも、おいしいもちを食べるために、私たちはまた精いっぱい摘み始めた。新鮮な蓬と小麦粉で作ったもちはなんとおいしいのだろう。その、春の息吹が入ってさっぱりとした味は今でも忘れられない。十分に春を楽しんだ私たちの幼少時代は、大自然のおいしさに溢れた暖かい日々だった。

 しかし残念なことに、喧騒だらけの複雑な世の中と隔離されたように見えた静かな故郷は今、経済の発展が急に進み始めた。それに伴って、清らかで澄み切った小川は小さくなってきて、いつも楽しそうに泳いでいた魚もだんだんいなくなり、緑の竹や可愛い動物などの代わりに花火工場が山の空間を奪ってしまった。村の空に響き渡るのは小鳥の鳴き声ではなく、さまざまな機械の騒音になった。今故郷の春は、きれいなことはきれいだが、前よりも大自然からの声や味や静かさを失ったので、子供にとって魅力はなくなってしまった。そのため、現在の子供たちは田んぼや山よりテレビや、コンピューターなどのほうがもっと好きなようだ。毎日外へ出ないで、家に閉じこもってテレビを見たり、コンピューターゲームをしたりして、暇な時間を過ごしている子供は少なくない。ゲームをしすぎて、まだ8歳か9歳なのに、もう分厚いめがねをかけている。春についての感想を聞いても何も答えられない顔をしている子供たちを見て、私はなんとなく悲しくて不安になる。

 「春の楽しみは失ってもいい。現代化さえ速く進めばいい 」という日が来ないようにと私は願っている。そして、活力に満ちた私の大好きな故郷の春が毎年巡ってきてほしい。

関連ニュース
写真トピックス
コメント
今週の番組
今日熱点
快楽学唱中文歌
特集ダイジェスト
LINKS