「里」という字が地名として使用され始めたのは春秋戦国時代で、最も盛んだったのは前漢から唐時代にかけてでした。しかし、北京においては「里」の字を地名として用いたのは民国時代で、1938年に出版された『最新北平全図』の中にその文字を見つけることができます。平安里の誕生は庄親王府と深い関係があります。清王朝末期、多くの旗人(旗とは支配階級だった満州族がつくった社会、軍事組織。八旗制度と呼ばれる。このいずれかに所属した満州人、モンゴル人、漢人は"旗人"と呼ばれた。)がいましたが、その中には皇帝の親類もいました。生活の支えを全て失い、食いつなぐために全ての財産や家を売らなければなりませんでした。庄親王の溥緒もそのうちの一人でした。1920年代、天津軍閥の李純とその弟の李馨が20万元相当の銀で、溥緒から住宅を買い上げました。そして彼らはここに新しい住宅を建設し、「平安 里」と名づけました。
平安里交差点の北側には護国寺通りがあり、600メートルほどの通りは明、清時代には有名な商店街の1つでした。
観光スポット
護国寺(护国寺)
護国寺は1284年に建てられた北京で有名な古刹です。その昔、北京では数多くの縁日が開かれており、中でも規模が大きく、多くの人で賑わっていたのが、隆福寺と護国寺でした。この2つの縁日は、「東西2大縁日」と呼ばれていました。改革解放後、ここは一時期、国家機関として使用され、多くの建物はこの時に撤去されました。2004年に西側部分で火災が発生し700年以上も風雨に耐えてきた西側の殿が失われました。
梅蘭芳記念館(梅兰芳纪念馆)
この記念館は典型的な四合院造りで漆塗りの大門の上には、鄧小平によって描かれた額が掲げられています。梅蘭芳は、1951年~1961年の人生の最後の10年間をここで過ごしました。部屋の中は、梅蘭芳が暮らしていた時、そのままに残され、晩年の生活の様子を再現しています。
グルメ
護国寺軽食店(护国寺小吃店)
北京の伝統的な軽食は、イスラム系、漢民族系、宮廷系の3つに分けることができます。その中でも、一番発展したのがイスラム系の軽食で、品数も豊富です。そしてこの護国寺の軽食が最も人気でした。1956年に護国寺の縁日は中止されましたが、幸いなことに縁日で売られていた軽食は関連機関に保護され、独立した護国寺軽食店が開かれたのです。
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