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曹操の評価
正史「三国志」の作者、陳寿は曹操の策略や、権謀、法体系の確立、人材登用などの業績を称えた後、このようにまとめています。「非常の人、時代を超える傑出した人」。
なかなか高い評価ですね。これは後世の歴史学者による評価ですけれど、曹操自身も何度も当時の人物鑑定家に評価してもらったことがあります。
橋玄の人物鑑定はとても有名なので、若い頃の曹操は橋玄のもとを訪れました。橋玄は「天下はまさに乱れんとしている。一世を風靡する才能がなければ、救済できぬであろう。よく乱世を鎮められるのは、君であろうか。」と言いました。
この橋玄は当時まだ無名だった曹操を初めて評価した人物です。更に、橋玄は曹操に人物評価で有名な許劭という人を勧めました。許劭は曹操を「治世の能臣、乱世の姦雄」と評価しました。「治世の能臣(のうしん)、乱世の姦雄(かんゆう)」。現代語に訳しますと、平和な世なら有能な政治家に、乱世なら悪の英雄になるという評価ですね。なかなか衝撃的な評価に聞こえますが、何と曹操はご満悦だったそうです。曹操はその評価がとても気に入り、満足そうに大笑いをしました。当時は、平和な時代ではなく、まさに動乱な世の中です。汚い手段をとっても、一歩一歩自分の目標に向かっていく。曹操はまさに、手段を選ばない悪の英雄、「姦雄」でした。許劭の評のとおり両面を、曹操は持ち合わせていたのです。
この「治世の能臣、乱世の姦雄」という評価はとても有名で、曹操の代名詞のようなものとなっています。今、その評を作った、許劭を知っている人は少ないかもしれませんが、「治世の能臣、乱世の姦雄」と言えば曹操のことだとみんな分かります。
ところで、曹操本人による自己評価も有名です。「寧我負人,毋人負我!」「天下の人に背くとも、天下の人を背かせはしない」。極めて自己中で、利己的な感じですね。「悪玉」のイメージが強いですね。
楊修の死
こんな曹操の素性を明らかにするために、『三国志演義』からの物語、楊修の死をお話したいと思います。
楊修は、父は楊彪、母は袁術の妹で、名門の子弟として生まれ、曹操に仕えていた参謀です。知識が豊かなことで有名な人です。しかし、若くして曹操に殺されました。「三国志演義」によると、その引き金となったのは、「鶏肋(けいろく)」です。鶏肋は、鶏の肋骨、鶏がらのことです。楊修の死は、劉備軍との漢中攻防戦において、「鶏肋」の謎を解いて、退却の準備をさせたことによるものです。
曹操は軍を進めようとするが、馬超に拒まれている。退却しようと思えば、劉備軍に嘲笑われることを恐れ、迷っているところである。この時、夕食に鶏肉のスープが運ばれてきた。スープには「鶏肋」鶏のあばらが入っているのを見て、何かに感銘しているようである。そうしている間に、武将の夏候惇(かこうとん)がテントに入ってきて、夜間の暗号を訪ねた。曹操が無意識に、「鶏肋」と漏らしたのを聞き、夏候惇はそのまま、「鶏肋」と伝えるよう発令官に命令を出した。
ところが、楊修は今夜の暗号が「鶏肋」であることを聞くと、「さっさと荷物を片付け、撤退の準備をしておこう」と兵士たちに命じた。夏候惇はそれを聞くとびっくりした。楊修に理由を聞くと、楊修は、「今夜の暗号で、魏王が必ず近いうちに撤退するに違いないと思った。鶏肋とは、食べるほどの肉もないが、捨てるには惜しいものである。今は軍を進めることができず、退却すれば笑われることを心配しているだけだ。ここにいても仕方がないから、必ず近いうちに撤退するだろう。」と言った。夏候惇は、「あなたは本当に王の心を読めているんだね」と納得した。すると、将兵たちは皆撤退の準備をし始めた。
しかし、それを知った曹操は、大いに激怒し、軍隊の士気を動揺したとし、楊修を殺した。
このことが引き金となって、楊修は死を招きました。文章は、これは曹操が楊修を殺した理由ですが、実は、曹操は前から楊修に対して不満がたまっていたと、更にいくつかの例を挙げて説明しています。では、もう一つ例を挙げましょう。
曹操は自分に危険が襲ってくるのを心配し、常に側近にこう言いつけている。「わしは夢の中で人を殺す癖がある。わしが寝ているところの、近くへ寄らないでくれ。」ある日、曹操は昼寝をしていた。布団が床に落ちたので、召使が慌てて布団を取り、曹操の身体に再びかけようとしていた。曹操は急に起きて召使を剣で切った。そして、再びベッドに寝た。しばらくしておきると、驚いたふりをし、「わしの召使を殺したのはだれだ!」と聞いた。側近の人が答えると、曹操は激しく泣き、手厚く葬るよう命じた。周りの人は皆、曹操は夢の中で人を殺すと思っているが、楊修だけが、死んだ召使を指差して、「丞相が夢見たわけでなく、君こそ夢の中だ!」と嘆いた。曹操はその話を聞いて、ますます楊修のことを嫌いになった。
『三国志演義』に出たこの「楊修の死」という一節は、楊修が自分の才能に頼り、上司の意図に合わせないという、秘書らしくないことをして、とうとう上司の嫌味を買って、死を招いたことを描いている一方で、曹操の心の狭さ、疑い深い臆病さ、それに、才能を持つ人に対する嫉妬も描いています。夢の中で人を殺す癖があると言ったりするなど、曹操は結構お芝居が上手な人ですね。
ところで、陳寿が書いた正史「三国志」には、楊修の伝記がなぜかありません。しかし、楊修は確かに実在の人物です。「三国志」の曹植伝記など、他の文章に記載されています。
ちなみに、その本当の死因と言いますと、楊修は曹操の第3子、文才が優れた曹植と親交が深かったのです。しかし、曹操は色々迷った結果、最後に、より政治的な才能を持つ曹丕を後継者に選びました。選ばれなかった曹植が才能の優れた楊修らに支えられ、将来、何か政変を起こすのではないかという心配と、それから、楊修の出身問題、つまり、その母親が大きな敵対勢力の袁家の出身だということなどを理由に、言い訳をつけて、楊修を処刑したということです。
「演義」で描かれた有能な人を嫉妬するという曹操の表面的な悪役イメージの裏には、実は、より深い政治的な要素がいっぱいありますね。(文章:ZHL)
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