■ 長崎が最初の窓口 世相史も分かる
――ところで、日本に保管されている年画は、どういったルートで入ってきたのでしょうか。
江戸時代に入ってきたものについては、九州の長崎が窓口でした。その頃、長崎に住んでいた清国の人たちは「唐人町」(とうじんまち)を作り、そこには常時、数千人ぐらいの人が住んでいたようです。彼らの日常品や食べ物、いろんなものが揚子江の港から運ばれてくる。そういう中に、お正月が近くなると、生活の必需品として、年画も入ってきました。そういうのが日本人の中に流れ、日本人はそれを「唐物」と言って大事にしていたので、現在まで伝わってきました。実際に、清代のものが200点ぐらい確認できました。
明治以降になると、中国を旅行する日本人や中国に住む日本人が出てきます。そういう人たちがお土産として、年画を買って帰ったりしていました。または、国から派遣され、中国の民族や文化を研究する留学生たちも、一般庶民の家庭にあるこういうものも中国の文化だということで、買い集めて、それが保存されているものもあります。
――視点を変えれば、両国の往来がそれだけ緊密だったことの現われでもあるのですね。
そうですね。面白いことに、大正期から昭和10年代までに集めた中国年画は、当時北京で流行っていた芝居を描いたものが多いんです。京劇が主なんですが…それが、もう今の中国大陸ではあまり残っていないようです。芝居や演劇の研究にも、貴重な資料だと思います。
――一種の世相史と言いましょうか。
そうですね。世相史といえば服装を思い出しますが、中国年画には、服装など新しいものをどんどん取り入れていました。たとえば、唐の時代の話なのに、そこには時計が描かれている。というような面白いものも残されています。「時計というものができたらしいから、ほしいな」「時計が描かれている絵がほしい」そういう気持ちの現れでもあると思います。
■素朴さと生命力が魅力
――三山さんは版画をはじめ、中国の民間芸術を生涯の研究テーマにしているようですが、どういうところに惹かれましたか。
私自身が美術科の出身で、大学を出てから、イラストレーターとして仕事していました。ただペンで描くだけでは、ほかの人とあまり差別化ができない。自分の特徴を出そうと思って、紙で切るイラスト、切絵もやっていました。そのうちに、中国にも「切り紙」があることを知って、そこから、中国の民間美術、そして、「中国」そのものに関心を持つようになりました。
民間美術の魅力は、一言で言えば、その素朴さとそこに含まれた巨大なエネルギーに尽きると思います。版画もその素朴でかわいいところに、とてもひきつけられますね。あまり上手で、写実的で、立派な絵だったら、きっと、あまりのめりこまなかったと思うんですけれども。
――民間美術に潜んでいる生命力に惹かれたというのでしょうか。
初めは面白いとか、きれいとか、細かいとか、外面的なことにひきつけられたのですが、そのうちに、何を表しているのか、切っている人、買っている人、それぞれ何を求めているのか。そういうのを理解しようと思うようになりました。そうすると、もっと中国が身近に感じられるし、作った人たちとも友達になれました。そうして、制作する時の気持ちも、もっと理解できるようになりました。
――デジタル化、情報化が進む今において、伝統文化を保護することの意義をどう捉えていますか。
伝統美術、伝統工芸は一つの技術ですよね。若いうちに習得していかないと伝承されていかないんですね。今は、学校教育の関係で、日本でも伝統技術を受け継ぐ人たちが少なくなっています。また、始める年齢が遅いので、なかなか技術をうまく伝承していけない問題があります。
デジタル化時代でも、やはり人間は何か自分の手で作れる技術を持っていなければなりません。大げさに言えば、そうでもしないと、人類は動物と同じようになってしまうのではと思います。一人一人が生きていく上で、何か自分が技術が使えるほうが、力のある生き方ができるのではないか。いつも受身ではなく、自分が創作して、作り出していく力がつけられるのではないかなと思います。
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