司馬遷年表 | ||
西暦 |
年齢 |
大きな出来事 |
前145年 |
1歳 |
夏陽県竜門に生まれる。父は司馬談。 |
前140年 |
6歳 |
父司馬談が太史令となる。 |
前136年 |
10歳 |
故郷で農耕生活を送りながら、師について、古文を暗誦する。 |
前127年 |
19歳 |
夏陽県から一家都長安に移住する。 |
前126年 |
20歳 |
この年から数年間かけて中国各地を旅行し、父が「史記」を著作することに協力するため準備作業を進めている。長江・淮水・ |
前123年 |
23歳 |
試験でいい成績をとり、郎中として抜擢され、武帝に仕える。 |
前122年 |
24歳 |
父司馬談が「史記」を編纂し始める。 |
前111年 |
35歳 |
郎中将の身分で皇帝の特使を努め、現在の四川省や雲南省に赴き、西南部の少数民族を鎮撫し、5つの郡を設置する。 |
前110年 |
36歳 |
漢武帝は山東省の泰山に登り天地を祭ることにする。父司馬談は随行するが、途中の河南省の洛陽で危篤。司馬遷は西南部から洛陽に来て、父司馬談と死別する。歴史書を完成させるようという遺言を受け、堅く承諾する。 司馬遷は漢武帝に仕え、泰山に行き、更に海辺に行った。碣石(けっせき)を通って、遼寧の西へ行き、更に、現在の甘粛省包頭付近を通って、陝西省に戻る。 |
前109年 |
37歳 |
武帝に付き従って、黄河の堤防決壊の修理工事に参加する。 |
前108年 |
38歳 |
太史令となる。 |
前104年 |
42歳 |
壺遂らと共に暦法「太初暦」を定める。『史記』執筆開始。 |
前99年 |
47歳 |
匈奴に降伏した将軍李陵を弁護して武帝の怒りに触れ、投獄され、死刑に宣告される。 |
前98年 |
48歳 |
「史記」を著作するため、自ら、屈辱的な宮刑を申請し、宮刑に処される。 |
前97年 |
49歳 |
大赦で出獄する。中書令に任命され、一生懸命「史記」を著作する。 |
前93年 |
53歳 |
親友の任安と文通する。 |
前91年 |
55歳 |
『史記』を完成する。 任安(少卿)に宛てた手紙「任少卿に報ずる書」を書き、自分の志や130巻からなる史書を書いたことをはっきり述べる。 |
前90年 |
56歳 |
司馬遷死す(?)紀元前87年或いは86年に死すとの説もある。 |
司馬遷親子二人とも、太史令、現在の国家図書館の館長という役職ですが、孔子が書いた「春秋」に続き、漢の時代までの新しい歴史書を書くというのが、もともと父親司馬談の夢でした。夢を実現できずに、なくなった父の遺言を聞きいれ、宮刑、男性なら去勢、女性なら幽閉と言う思い罰に処されても、一生懸命「史記」を完成させたのが、司馬遷です。
司馬遷の運命は、将軍李陵を弁護したのが大きなターニングポイントになりました。李陵は5000人の軍隊を率いて、匈奴を侵攻しましたが、3万人の匈奴軍隊と遭遇し、負けました。やむを得ず投降しました。漢武帝は激怒し、「太史令、どう思うか」と聞きました。すると、司馬遷は、「李陵が死なずに投降したのは、それなりの考え方があるに違いない。いずれ罪を償い、陛下に報おうとしているのではないか」と述べました。武帝は敵軍に投降した裏切り者を弁護するのは、朝廷に反対する行為として、司馬遷を投獄しました。死刑を宣告されましたが、漢の時代は、死刑を逃れるため、宮刑、つまり去勢手術を受けるという方法がありました。司馬遷は歴史書を書くため、屈辱の宮刑を受け入れました。
これは「体を傷つけないのが、親孝行の第一歩だ」と考える中国古代では、死ぬことよりもひどい刑罰です。司馬遷は任安(少卿)への手紙「任少卿に報ずる書」ではこのことについて、「こんな禍に合い、友人や親族の人に嘲笑され、先祖に恥をかかせてしまう。両親の墓参りもできず、末長くこの恥が残るだろう。じっとしていることができず、一人でいる時は何かをなくしたかのようだ。外に出かけようとしても目的地が分からない。この恥を思い出す旅、背中は冷や汗でびっしょりする」。こんな普通の人なら想像できない苦しい生活の中で、比類ない、すばらしい歴史書「史記」を書き上げたのです。
今回は、前回に続き、こんな司馬遷が商売人を取り上げた一巻、「貨殖列伝・序言」の「中」をご紹介します。
(「貨殖列伝・序言」)太行山脈(たいこうさんみゃく)の西は、木材や竹、麻、ヤク、玉石などが大量に産出し、太行山脈の東は、魚や塩、漆、シルクのほか、歌や踊りに長ける人や美人が多いことで有名である。長江の南の地域では、楠の木やキササゲ、生姜、シナモン、金、錫、鉛、しんしゃ、犀角(さいかく)、ベッコウ、真珠、象牙、皮革など豊かな資源がある。竜門山や碣石(けっせき)以北では、馬や牛、羊、毛氈(もうせん)、毛皮、動物の筋、角が豊富である。また、銅や鉄などの金属は幅広い範囲に分布し、異なる地域では異なる特産がある。これらすべては、中原地帯に住む人々が好きな生活必需品であり、着る物や食べ物など、人間の一生に使うものとして消費されている。だから、農民によって食糧を獲得し、猟師によって山や川、海から資源を取り、職人によって様々な器具を作り、更に商売人によって貨物を流通させる。これは政治命令がそうさせるのではない。人々は自らの能力によって自分ができる仕事をし、自分の力で、自分の欲望を満足させる。値段の安いものは時間が経つと高くなり、これと同様に、値段の高いものは時間が経つと安くなる可能性がある。これによって、各業界の人々は自分の仕事に励み、自分の仕事を楽しんでいる。水が低いところへ流れて、日夜止まらないように、わざわざ求めなくても、人々は自主的に物を生産している。これはまさに農民や猟師、職人、商売人の仕事が経済の法則に合うものであることを示しているのではなかろうか。
注:太行山脈は中国の北部、現在の山西省、河南省、河北省の三つの省の境界線付近に位置する
竜門山は現在の山西省にある
碣石(けっせき)は河北省にある
中原地帯とは、現在の河北省・河南省・山東省・山西省などの地域を指す
『周書』という本はこんなことを記述している。「農民が働かなければ食糧が足りなくなる。職人が働かなければ、器具が足りなくなる。商売人が輸送などしなければ、食糧や器具、財貨が乏しくなる。猟師が働かなければ、財貨が足りなくなる。」農民、職人、商売人と猟師という4種類の人の生産は、人々が衣服を着られ、物を食べられる源である。この源が大きければ豊かになり、源が小さければ貧乏になる。源が大きくなれば、国家レベルでは強い国になり、家庭レベルでは豊かになる。貧富はすべて個人のがんばりによるものである。富裕層から無理矢理に財産を奪うことができず、貧困層もただで物をもらえるはずもない。頭のいい人は豊かな生活を送り、馬鹿な人は貧しくなる。 (「貨殖列伝・下」へ)
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