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ヤオ族の女性医師・蘭芝琳さん

2012-03-16 10:11:21     cri    

 中国南部の広西チワン族自治区融水県には長い歴史を持つ民族・ヤオ族の人々が暮らしています。ヤオ族の部落の一つに紅ヤオがありますが、自然環境や生活習慣の違い、それに貧困のために、それまで紅ヤオの女の子は学校に入ることができませんでした。それが1988年に第1期春蕾紅ヤオ女子児童クラスが設置されてから、紅ヤオの女の子の運命は大きく変わりました。

 ヤオ族は2000年余りの歴史があり、主に、南の広西、湖南、貴州などの山間地帯に暮らしています。風俗習慣や服飾の違いによって、紅ヤオ、白コヤオ、盤ヤオなどに分けています。

 紅ヤオは桃色の衣服を着ていることから、このように名づけられています。

 紅ヤオの蘭芝琳さんは1982年、広西チワン族自治区柳州市融水県白雲郷の農村に生まれました。しかも蘭さんの村は、郷の役所まで歩いて5時間もかかるという場所にあります。蘭さんは6歳のとき、まだ正式な名前がなく、村人は彼女のこと、蘭さんの小さな女の子という意味で「蘭妹」と呼んでいました。そのとき、蘭さんは村の多くの女の子と同じように、毎日、山へ牛を放牧しに出かけました。男の子がカバンを持って学校へ通っているのを見ていた蘭さんは、「私は毎日牛飼いをしていたのに、ほかの子供が学校へ通うのを見て、うらやましくてたまりませんでした。どうして、あの子が通えるのか、学校ではどんなことを勉強しているのかと、そんなことばかり考えていました」と話してくれました。

 1988年、桂林市の学校を卒業して村に帰ってきた紅ヤオの若者蘭政英さんは、桂林の学校で、他の少数民族の女の子たちが大勢勉強していたのを見てきました。そこで蘭政英さんは村の女の子を学校で勉強させるために、村に学校を作りました。しかし、学校が出来た当初、生徒はたったの6人で、1年生から6年生が一つの教室で勉強していました。蘭芝琳さんはそのうちの一人で、紅ヤオで初めての女子生徒となりました。蘭政英さんは彼女に蘭芝琳という正式な名前をつけました。

 しかし、女の子が学校に通うことは村のお年寄りたちから反対されました。「女の子には学問などいらない、遅かれ早かれ、嫁に行くんだから、必要ない」と。

 蘭芝琳さんの話によれば、ある日、お年寄りたちと一緒に牛を放牧に行ったとき、あるお爺さんにこう言われたそうです。「女の子は勉強するものではない。勉強したってそれは自分で自分の首を絞めるようなものだ」

 そう言われて、蘭芝琳さんは負けずに一生懸命頑張ろうとひそかに決意しました。

 1988年、中華全国婦女連合会はこの地域に、貧困や文化的な違いから教育が受けられない少女たちのために、第1期春蕾女子児童クラスを設けました。2年後、蘭芝琳さんとほかの4人の女の子たちはこのクラスに入り、正式に教育を受けるようになりました。当時、蘭さんのお兄さんも学校で勉強していましたが、そのときの家の年収はわずか100元余りだったため、学校へは1人だけしか通えませんでした。ほかにどうすることもできず、仕方なくお兄さんが学校に通うことをあきらめました。

 兄と妹、2人の人生を大きく左右したこの決定は、今でも蘭芝琳さんにとって残念に思えてなりません。もしあの時、お兄さんが学校に通うのをあきらめていなかったら、きっと生活は今より楽だったはずと、そう考えると蘭芝琳さんはやりきれない思いで一杯になります。「兄に申し訳ありません。あの時兄がわたしのために、学校に通うのをあきらめていなければ、現在のように、ただ農作業しかできないことはないでしょう」と言っています。

 自分を責める気持ちと、紅ヤオの女の子の運命を変えたいという夢を抱いて、蘭芝琳さんは懸命に勉強を続けました。

 1997年、蘭芝琳さんは広西チワン族自治区衛生学校の試験に合格しました。そして2002年に卒業した後、白雲郷病院産婦人科に勤務し、さらに努力を重ねた末に、医師の資格を取り、紅ヤオ初の女性医師となりました。

 紅ヤオでは、国の援助プロジェクトである春蕾計画が行われ、女の子も学校教育が受けられるようになりました。蘭芝琳さんはより多くの紅ヤオの女の子たちが自分と同じように、知識を得て運命を変えていくことを期待しています。(トウエンカ)

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