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チベット、奴隷から主人公に

2009-04-17 17:01:35     cri    
 新中国が成立する前、チベットでは政治と宗教が一体化した政教一致体制を実施し、僧侶貴族と世襲貴族が政治権力を握り、95%以上の人々は自分の運命を変えるいかなる権利も機会もなく、政治活動に参加する機会もありませんでした。特に、農奴は食事と労働以外、ほぼ人間としての権利はありません。いったん、農奴になってしまったら、子々孫々、永久に身分を変えることは出来ず、農奴であり続けるしかありませんでした。    

 封建農奴制を明記した当時の法典では、人々の身分は3等9級に分けられており、「身分の低いものの命は縄と同じ」と規定してしていました。これについて中華全国婦女連合会のバッサン副会長は「農奴主は農奴を殺害した後、草で編んだ縄1本をその賠償として出しました。死んだ農奴の遺体をこの草の縄で縛って鳥葬の場所に送るためでした。これが法典で定められたいわゆる等級というものでした。

 農奴たちが自分の身分を変えようと寺院に助けを求めても、前世で悪い行いをしたため、現世でこうなるわけだという返事ばかりでした。

 カナダのチベット学者トム・グルンフェルドさんは、「これは社会を支配し、人々を騙す非常に狡猾な手段に過ぎない。封建制度によって、農奴が身分を変えようとすれば、来世はもっと困る状態に陥り、現世の運命に従うしか方法はないというのだ」と指摘しました。 

 これとほぼ同時に国連総会で、「世界人権宣言」が採択されました。この宣言は、「すべての人は自由に、そして尊厳と権利について平等に生まれていている。どんな人でも奴隷にされることや、奴隷制度と奴隷売買はいかなる形であれ、禁止すべきだ」と宣言しています。          

 1949年、新中国が成立し、中央人民政府はチベット政府に和平交渉を求めました。1951年5月、双方は、「中央人民政府とチベット地方政府のチベットの平和的な解放に関する方法」という協定に署名しました。この協定に基づき、チベットが中央人民政府の指導の下で、民族自治を実施し、チベットの各項目の改革が交渉によって行われ、各クラスの役人は依然としてこれまでの地位につき、現行の政治制度とダライ・ラマの地位を変更しないことにしました。

 1956年、チベット自治区準備委員会が成立し、国家機関の職員の労働税を免除しました。このことは農奴が農奴主の支配から抜け出したことを意味します。しかし、この制度は当時、三大寺院のラマの連名による反対を受け、農奴主階級は海外反動勢力の支援の下で、チベットの末端政府機関を武力によって、襲撃するなど破壊活動を行いました。

 1959年3月、ラサで騒乱が発生し、一部の人々はいわゆる漢族の人がダライラマを拉致しようというデマにより、町に集まりました。事前に武装したラマとチベット軍が当時の自治区委員会の官員を殺害しました。その年の3月16日、海外勢力の援助の下でダライラマの一行は海外へ亡命しました。その後3日間で人民解放軍は騒乱を平定しました。周恩来首相は、1959年3月28日からチベットの封建的な農奴制政府を解散する国務院令を出し、チベット人民は文字通り、チベットの主人公になりました。

 チベット解放のプロセスをこの目で見た人々は町に出て、騒乱を収めたことを祝いました。このとき、異なる農奴主に属していた農奴はようやく親族と会うことができ、家のない人々も政府の作った住宅に住み、逃げた農奴主の帳簿も焼き払われました。

 農奴たちは自分たちが使う土地や家畜、農機具などが当てられました。

 1961年9月、チベット各界は第1回民主選挙を行い、それまで農奴だった人々が初めて自らの政治権利を行使しました。1965年チベット自治区第一期人民政府が成立し、かつての農奴が指導者として選ばれました。その後50年間で、チベット自治区の経済、社会は全面的な発展を遂げ、人々は幸せな生活を送っています。(翻訳:トウエンカ)

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