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中国の南沙諸島に対する領有権、疑うべからず

2011-06-08 15:30:00     cri    

 「人民日報海外版」はこのほどの記事で、「南沙諸島は中国の領土である。これについては歴史的に根拠があり、国際法でも拠り所がある」としています。

 それによりますと、中国人は最も早く南沙諸島を発見し、島に名をつけました。長期にわたる航行と生産活動を通じて、中国人は紀元前2世紀に南沙諸島を発見し、島嶼、砂州、暗礁などの状況をそれぞれ把握しました。また、唐と宋の時代に至っては、「万里の長沙」などこれら島嶼を指す専門の地名が現れました。その後の多くの文献には、これら島々を表す地名が数十個も記され、島嶼、砂州、暗礁、海水の流れ、地形と方位などが詳しく記入されています。

 中国人は一番早く南沙諸島を開発し、そこで暮らしてきました。紀元前1世紀の「異物志」と晋の「広州志」では、中国の漁民がここで漁を行っていると記載しています。明と清の時代、ここの漁民の数は増え、その活動範囲も日増しに広まり、作業コースも形成されました。彼たちはこれらの島々で樹を植え、開拓するなどして開発活動を続けました。19世紀に入ってから外国の航海家と侵略者は、この実情を目の当たりにし、南沙諸島は中国人によって開発され、経営されていることを認めざるを得なかったです。イギリス海軍の測量製図局が出した「中国海ガイド」では、南沙諸島の鄭和暗礁などについて「海南の漁民の暮らしはナマコや貝類によって営まれている。海南の漁民は各島に行き、そこに住み着いている」と書いています。

 ところで中国はこれまで南海(南中国海)に対して国家の主権を行使しています。明の時代の「鄭和航海図」で表示された「万生石塘嶼」は、今日の南沙諸島のことなのです。1716年の「大清中外天下全図」や1817年の「大清一統天下全図」などは、いずれも南沙諸島を版図に入れており、これを「万生石塘嶼」として記しています。また、1883年にドイツは清朝政府の抗議を受け、ここでの調査活動を停止しました。1933年、一部の島を不法占領したフランスは、中国の漁民の抵抗にあい、また清朝政府との交渉を通じてここから撤退しました。さらに1946年、中国政府は「カイロ宣言」と「ポツダム宣言」に基づき、四つの島を取戻しました。そしてその引渡し式典が行われた後、領有権があることを示す石碑が建てられました。その後1947年に中国は「南海諸島新旧名称対照表」を出版し、海南島を広東省政府の管轄下に置きました。翌年の2月、国民党政府は「南海諸島位置図」を公布しており、新中国成立後も、引き続きこれを使用し、領有権を行使しています。また1951年に、周恩来首相が発表した「米英の対日講和条約案およびサンフランシスコ会議に関する声明」で、西沙、南沙の諸島、東沙、中沙の諸島は従来から中国の領土であり、米英の日本に対する平和条約の影響は受けないという厳正な姿勢を示しました。1958年中国が発表した「領海に関する声明」は、「中華人民共和国の領海の幅員は12海里とする」とした上で、これは東沙、中沙、西沙、南沙の諸島及びその他の中国領有権内の島々に適応するとしています。

 今ある歴史的資料と国際法が定めた原則に基づき、中国は南沙諸島及びその付近の海域に対して、争う余地のない領有権を持っています。この点は多くの国々に認められ、それぞれの国の地図でも明確にされています。ドイツの1954年版の「世界大地図」、ルーマニアの1957年版の「世界地理図集」、スペインの1970年版の地図、日本平凡社の1973年版の「中国地図集」などがそれです。

 南沙諸島の領有権を巡る食い違いについて、中国は終始、責任のある態度と自制を保っています。そして建設的な姿勢で、対話や交渉を通じての適切な処理を主張しています。中国は、公認の国際法と、国連海洋法条約を含めた近代の海洋法が確立した基本原則と法制度を踏まえて、関連各国と話し合うという平和手段による解決を目指しているのです。(朱丹陽)

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