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 花岡和解成立10周年、北京で記念イベント

2010-11-28 22:05:34     cri    

 戦時中の強制連行と強制労働をめぐり、日本に対し被害賠償と謝罪を求めた初の民間提訴として知られる「花岡訴訟」は、この29日で和解成立10周年を迎えます。これに先立ち、28日、北京市内の中国紅十字会賓館で記念イベントが開かれました。河南、河北、山東など全国各地からの生存者及び遺族たち、日中両国の後援団体、弁護士代表、サポーターら100人余りが参加しました。

 花岡平和友好基金管理委員会の田中宏委員長と同委員会委員で、花岡受難者連誼会の周長明幹事(中国紅十字会代表でもある)はそれぞれ開会の挨拶をし、ここ10年来の戦後賠償訴訟の動きと結び付けて「花岡和解」の意義を振り返りました。このほか、「花岡和解成立十周年」をテーマにした来賓の講演や、基金会の活動報告が行われ、さらに、遺族や中国人強制連行連誼会支援会関係者、中日の弁護士代表らの参加によるパネルディスカッションも行われました。

         会場の雰囲気。司会者の張恩龍氏(左上)は花岡事件当事者の孫

 花岡平和友好基金管理委員会によりますと、これまでに、花岡に強制連行された生存者もしくはその遺族530人余りと連絡が取れ、その中の479人は賠償金交付の手続きが済んでいます。ただ、残り450人余りの消息が分かっていないこともあり、今後、もっと多くの人に歴史を伝えるため、花岡事件記念施設の設置を考え、その準備を着々と進めている最中だということです。

 中華日本学会顧問の駱為龍氏(写真左)は講演の中で、「花岡和解は中国人強制連行の戦後賠償問題解決の突破口を作り、その他の案件の解決のための判例を作った。これは歴史的な意義がある出来事だ」と指摘し、「日本に強制連行された中国人労働者4万人の賠償問題が一挙に解決し、後世に強制連行と強制労働の歴史があったことを伝えてこそ、花岡訴訟の真の勝利になる」と訴えていました。 

  事件発生から65年余りが経ち、生存者が 年々減っていく中、今回の参加者に子どもや孫の代の参加者の姿が数多く見られました。息子同伴で参加した山東省安陶県の宋明遠さん(65歳、写真左下)は自分が生まれる前に、父親が花岡に強制連行され、帰らぬ人となりました。

「父親の顔を知らないことは、この生涯で一番悔しいことだ。武装蜂起した父の代の被害者はいまだに日本の法律では殺人犯扱いのままになっている。日本政府に謝罪を求め、歴史をありのままの姿に戻してほしい」と活動参加の思いを語りました。

 なお、閉幕に際し、花岡受難聯誼会による日本政府への責任追及という目標に向け、次の代への歴史教育、中日の友好増進、和解成果の拡大に向けた努力などを含めた5つの提案が読み上げられました。

【背景 花岡事件と花岡和解】

 1945年6月30日、日本秋田県の花岡鉱山に強制連行された中国人労働者700人あまりが、過酷な労働と非人道的な待遇に耐えられず蜂起しました。蜂起は日本側の鎮圧に遭い、3日間で労働者130人以上が拷問を受けて死亡しました。統計によりますと、1944年8月から1945年11月までの間に、花岡鉱山の中国人労働者986人のうち400人以上が死亡したということです。
 なお、戦時中、日本政府は国内の労働力不足を補うために中国から強制連行された労働者は4万人余りに上り、そのうちの6830人が日本で命を奪われました。
 花岡事件及び戦後賠償をめぐり、5年にわたる訴訟と20回にわたる調停を経て、2000年11月、内外の友好人士、華僑及び中国紅十字会の支援の下、鹿島建設による加害の歴史を認め、謝罪する声明の発表と和解金5億円の拠出で、原告団が加害企業との和解が成立しました。花岡和解に対し、当事者陣営を含め、賛否両論の声がありましたが、中日間の残された戦後処理において新しい道筋と方法を作り出し、日本政府に対する責任追及に土台作りをしたという点において、中国の対日本民間賠償請求の一里塚とも見られています。

(王小燕、馬玥)

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