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チベットの歴史

2009-03-03 15:25:59     cri    

 中国は統一した多民族の国です。十三世紀の半ば、チベットは正式に元王朝の版図に組み入れられました。それ以来、チベットは歴代の中央政府の管轄下に置かれてきたのです。

 いまから2000年ほど前のチベットの先住民は中原地区の漢民族と連絡をとっており、その後七世紀初め、統一した唐王朝が誕生しました。そのときにチベット族の民族英雄である松賛干布(ソンツェンガンポ)はチベット高原を統一し、吐蕃(とばん)王朝を創立したのです。また、松賛干布は唐の皇帝の娘である文成王女を嫁にもらい、唐の先進的な生産技術、それに政治と文化の成果を取り入れました。その後の長い間、吐蕃と唐王朝は友好的な関係を保っていました。

 1271年、チンギス・ハーン(ジンギスカンとも呼ばれる)が国号を元にし、その8年後に、中国を統一して中央政権を設置したのです。こうして、チベットは元王朝が直接に管轄する行政区の一つとなっています。元王朝はチベットの事務を管理する行政長官と多くの下級の役人を任命して、3回もチベット住民の戸籍を調べました。

 1300年代の後半、明王朝は冊封体制を取り、政治力のある地方のリーダーに「王」或いは「法王」などの爵位を授けることになります。明王朝はチベットのリーダーを冊封すると同時に、元王朝のやり方でチベットを管轄しました。

 1600年代の半ば、清王朝はチベットでの主権行使をさらに制度化し法律化させました。そして1652年にダライ5世は順治帝を朝見しました。翌年、順治帝は金冊と金印を賜って5世ダライとして冊封じました。これで、ダライ・ラマの爵位は正式に確定されたのですが、1713年に康熙帝が、パンチェン・エルドニ5世を冊封し、パンチェン・ラマの爵位が確定したのです。

 1800年代以降、西側の侵略者は中国を侵略し、清王朝は徐々に衰えていきました。しかし、清王朝は依然としてチベット地区で主権を行使していたのです。のち1911年に辛亥革命が起こり、中華民国が成立しましたが、中華民国政府もチベットでの主権行使を行っていました。

 1949年に中華人民共和国が成立しました。1951年に中央人民政府とチベット地方政府の代表は、チベットの平和解放に関する一連の問題で一致に達成しました。そして結ばれた協定には、チベット地区の全ての対外的事務は中央人民政府が扱うこと、チベット住民の風俗と習慣を尊重し、宗教信仰の自由を保護することなどの内容が含まれています。その後、ダライ・ラマとパンチェン・ラマはそれぞれ中央人民政府の毛沢東主席に書簡を送り、この協定を擁護し、祖国の主権統一を守ることを表明しました。

 1954年、ダライ・ラマとパンチェン・ラマは共に北京で行われた第1期全国人民代表大会に参加しました。会議では、ダライ・ラマは全人代常務委員会の副委員長に、パンチェン・ラマは全人代常務委員会の委員に選ばれました。

 しかし、1959年の3月、チベット地方政府の上層グループは動乱を起こし、農奴制度を維持し、民主改革に反対して、祖国の分裂を企てました。そして動乱失敗後、ダライ・ラマはインドに亡命したのです。同年の3月28日、中央人民政府、チベット地方政府を解散し、チベット自治区準備委員会を設置して、もと地方政府の職権を代行する命令を出したのです。同時に、中央人民政府はチベット人民の意志に従い、民主改革を行い、農奴制度を廃止しました。こうして100万余りの農奴が解放され、自由の身となったのです。

 今年2009年はチベットの民主改革実施50周年にあたります。今年1月、チベット自治区の立法機関はチベット人民の意志に基づき、毎年の3月28日を「百万農奴の解放記念日」にすることを決めたのです。

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