当時、中国地区の政治情勢が複雑だった。なぜからというと、国民党は沈陽、長春とその周辺の町を支配し、共産党は哈爾浜、斉斉哈尓、牡丹江、佳木斯、吉林、延吉、安東(現丹東)など、広い農村の地区を支配した。また、ソ軍は大連地区を支配した。日本人を帰国は順調に進めたため、1946年1月10日、軍事三方(中国共産党、国民党、米国)は会議を開き、「『北平軍事執行部三者会』を作り、東北地区の日本人を帰国させるための統一管理を行う。国民党の東北行轅、東北民主連合軍は具体的な仕事をすることを相談して決めた。「軍事執行部三者会」は「東北民主連軍が安東地区の75000日本人を鴨緑江口から船に乗せ、陸路で朝鮮経由で返す。ソ軍は大連地区の27000日本人を直接に日本へ送る。国民党支配区、或いは、共産党から支配された東北地区のそれ以外の日本人は、全部葫芦島から帰国する」と決めました。
1976年7月、「東北日僑管理所」は中国共産党に6000万元を渡した。8月21日、松花江の中国共産党に支配された地区の日本人が帰国し始めた。8月27日、吉林省政府は吉林軍事地区の仕事を実行しました。9月の下旬まで、徴用された日本人を全部帰国しました。「東北日報(新聞)」によると、帰国させた日本人の数は合計で18222でした。
(この続きは7月24日に掲載します)
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