60年前の少年は、今は75歳のお年寄りになりましたが、若い頃の中国で過ごした戦争の日々のことがまだはっきりと記憶に残っているようです。北京放送東京支局の張国清支局長は、このほど、この尊敬すべき方のお宅を訪れ、その時の話を伺いました。
「長野県北京放送を聴く会の年次総会に参加した私は、聴く会会員の中にかつて中国人民解放軍第四野戦軍に入隊した会員がいることを知り、この方を取材することにしました。そこで教えてもらった電話で何度もその方と取材について話し合い、取材日を約束しました。その方の名前は有賀元彦さんと言います。7月中旬のある日、私は東京から有賀さんが住んでおられる長野県安芸郡を訪れました。田沢と言う小さな駅を出ると、やさしい笑顔を浮かべながら私に向かって挨拶している人がいました。その方は有賀元彦さんだったのです。北京放送日本語部のホームページで私の顔を覚えていたので、一目で私とわかったといっていました。
有賀さんのお宅に入ると、中国関係のビデオテープや書籍などが所狭しと並べられ、壁には中国の指導者や日本駐在の元中国大使らと撮影した写真、それに内蒙古のある小学校の正門で撮った記念写真などが何枚掛けられているので、私は、そのときなにか中国にいるような錯覚に陥りました。
有賀元彦さんは今年75歳、今から61年前の1944年6月に何も知らずに長野県少年義勇軍開拓団の一人として中国の東北部に送られました。」
「帰国してから52年の間に、有賀さんは友好活動に身を投じ、また、中国の希望小学校の設置に自ら日本円で300万円ほどを寄付されました。長野県日中平和友好会会長、回想四野会会員、それに内蒙古ウランホト市名誉市民など多くの肩書きを持つ有賀さんは、充実した毎日を送っています。有賀さんは今後も、一民間人として中国人との友好を推し進める活動を続けていくと決意を固めていおられました。」
あの戦争は60年前に終わったものの、戦争中起きた様々な事件やストーリーは今でも語り継がれています。中では、戦争の残虐な一面が記述されるものがあれば、人間性に溢れる武器を使わない戦いもありました。中国を侵略した日本軍と共に中国にやってきた義勇軍開拓団員だったのですが、有賀さんを初めとする一部の日本人少年は中国人民解放軍の一員となり、正義と良心を守るため、中国の土地で反ファシズム戦争に身を投じたのです。
戦争にあくまでも反対するというのが、有賀さんが、その話で最も強調された点ですが、これは、中国人にせよ、日本人にせよ、世界のすべての国の人の共通の立場と願いのでしょう。
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