<侵略戦争の勃発>
北京西南郊外を流れる永定河にかかる盧溝橋は、今から800年以上前の金代に建造されたものです。その合理的な設計や精巧に彫刻された美しいライオンなどから、盧溝橋はかつで「世界で最も美しい橋」と称えられていました。
昔は、北京と武漢をつなぐ平漢鉄道がこの近くを通過し、北京から南方などに行くには、盧溝橋が唯一の通路でした。北京の南の玄関で軍事的要所でもあった盧溝橋では、1937年の7月に、日本侵略者による攻撃の銃声がとどろき、中華民族の抗日戦争の幕が切って落とされたのされたのです。
ところで、盧溝橋事件の勃発に先立ち、日本侵略軍は早くも1931年に、中国大陸を侵略するプロローグ・「9・18事変」を引き起こしています。日本軍は自分たちが仕掛けた柳条湖事件を口実に、総面積100万平方キロもある東北三省を占領し、更に、清の最後の皇帝、愛新覚羅・溥儀を皇帝に仕立て上げ、傀儡政権である満州国を作り上げました。
<侵略戦争は当時の日本の国家政策>
中国第二次世界大戦史研究会の秘書長で軍事科学院の研究員である彭訓厚教授は、1931年9月の18日、日本ファシズムの中国東北地区への侵略の目的は、中国を滅ぼすことだけではなく、日本にとって、中国はそのアジア引いては世界での制覇を実現する重要な基地であり足がかりでもあったのだと指摘しています。
北京師範大学歴史学部の王檜林教授はこれについて、当時、日本国内には軍国主義者が支配的地位にあり、隣国に対し侵略戦争をしかけることは当時の日本の国家戦略だったと語っています。
「日本は明治維新以降、その東アジア制覇の目標を実現するため、中国を主な侵略対象国としました。当時の中国はたいへん弱かったです。しかし、国土が広く物産も豊富ですし、何よりも、地理的に近いため、日本は東アジアで覇を唱えるため、先ずは中国を占領することを決めました。
当時の日本の対外拡張政策の段取りとは、先ず中国東北を占領して、中国を制覇する。続いて、イギリスやアメリカの東南アジアと太平洋地区の植民地を攻め落とし、ひいては、北上して旧ソ連を攻撃するというものでした。」
<中国の反撃・二つの戦場>
1937年までに、日本は既に、中国の東北三省と華北の一部エリアを支配下に置きました。しかし、その拡張の計画は予期していたようなに順調に進めることができませんでした。それは日本軍は中国で、軍隊と民間人による粘り強い抵抗に遭ったからです。
1937年、盧溝橋事変の勃発により、当時の中国の二大政党、中国共産党と中国国民党は内戦を停止し、抗日統一戦線を結成し、一致して外部からの侵略に立ち向かいました。それ以降、中華民族は国を上げて、日本侵略軍と全面的に戦うようになりました。この抗日の戦いは8年間続き、中国の軍隊と民衆は、経済力と軍事装備では、自分たちをはるかに上回った敵を相手に、粘り強く戦ったのです。これにより、日本軍の北上計画は妨害を受け、南下計画の実現も遅らせざるを得ませんでした。
中国社会科学院近代史研究所の王建朗副所長は、当時の抗日の戦場にはいわゆる「正面戦場」つまり正面から戦うことと、いわゆる「敵後戦場」、つまり敵の後方で戦うという二つの戦場があったと指摘しています。
「一つは国民党のリードする政府軍を主力とし、日本軍と対峙してきました。もう一つは、既に日本軍に占領されたエリアでの戦いで、その主体は共産党の指導した八路軍、新四軍、さらに、その後成長してきた民兵とゲリラでした。この両者は互いに呼応しあっていたのです。」
<中国の抗日戦争は世界反ファシズム戦争に貢献>
1939年9月に第二次世界大戦が勃発し、1940年には、日本、ドイツとイタリアの三国同盟が締結されました。その2年後、この3つの枢軸国の起こしたファシズム戦争に反撃するため、中国と旧ソ連、アメリカ、イギリスなど26の国がワシントンで『連合国宣言』に調印し、世界反ファシズム同盟が正式に形成されました。これにより、中国戦場は世界反ファシズム戦争での東側のメイン戦場となったのです。
これについての王建朗副所長の話です。
「日本軍は陸軍の半分以上の兵力及び多くの海軍と空軍の兵力を中国戦場に配備したのです。これに対して中国は日本軍に粘り強く反撃していたので、日本はドイツとの共同作戦というチャンスを少なくしてしまったのです。また、中国戦場では、日本陸軍の主力がけん制されたので、日本軍は太平洋戦争での対アメリカ作戦で多くの困難にぶつかりましや。このように、中国戦場での中国の働きは西側諸国の戦場にも呼応的役割を果たしのです。」
1945年9月9日、盧溝橋事変から8年2ヶ月過ぎた後、中国戦場での日本降伏の調印式が南京で行われ、中国人民は抗日戦争の最後の勝利を勝ち取りました。
中国第二次世界大戦史研究会の秘書長であり軍事科学院研究員の彭訓厚教授は、「中国の抗日戦争は世界の反ファシズム戦争を力強く応援し、その勝利は主に、中国人民が血を流して奮戦した結果であり、同時にこの勝利は、同盟軍と同盟国の人々の支援と協力とも密接にかかわっている」と強調しました。
<被害と加害の史実>
1931年の「9・18事変」から、日本の対中国侵略戦争は15年間続きましたが、この間、中国人民は一致団結して戦い、勝利を収めました。中国のこの戦争での死傷者は3500万人に上り、経済的損失はなんと6000億ドルに達しました。
侵略戦争は被害国である中国に深いつめ跡を残し、人々は心身共に体と深い傷を受けました。中でも、現在も400名ほどの生存者がいる南京大虐殺、日本に強制連行され、強制労働させられた中国人労働者、そして、日本軍の性的奴隷にされた元従軍慰安婦などはよく知られている史実です。これだけでなく、旧日本軍が敗戦の際、中国に約70万発の化学兵器を遺棄し、戦争終結60年を迎える今年になっても、その化学薬剤の漏洩による被害者が続出しています。
一方、戦争を発動した日本は加害者でありながら、日本国民も戦争によって大きな被害を受けました。日本は世界唯一の被爆国として、アメリカの投下した原爆で約30万人の一般市民が一瞬にして命を奪われました。また、侵略戦争に駆り立てられ、戦死した300万人の軍人もほとんどが一般家庭の出身です。
このほか、日本は敗戦の際、軍人を含めて約660万人の国民を海外に残し、日本軍が中国東北部から引き上げたあと、中国人の養父母に育てられた日本人戦争孤児の数は3000人を超えていると言われています。
<恒久の平和を目指す>
戦火を潜り抜け、中日両国の悲惨な過去のワンシーンを体験した盧溝橋。この石でできた橋は、今でも、北京の西南部に架けられています。
1938年5月、抗日戦争の真っ只中に、今は無き毛沢東氏はその有名な講演、「持久戦について」で、次のように語りました。
「我々の抗日戦争は、恒久的な平和を勝ち取るために戦う性質を持つ。一つの国の平和でなく、世界の平和を、一時的な平和でなく、恒久的な平和をも求めていく。」
戦争終結60周年の節目を迎えたこの年に毛沢東の言葉は今のの人々にとって、示唆の多いものと言えましょう。
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