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2時間目 私の卓球人生、そして、中国との絆~松崎キミ代さん(上)

2017-10-03 16:56:40     cri    

聞き手:王小燕

 この9月29日は、中日両国政府が国交正常化を宣言する「共同宣言」が調印されて45周年の日です。9月初め、北京で開かれた一連の記念行事に招かれて中国を訪れた松崎キミ代さんにお話を伺います。

 1959年、わずか20歳の若さ、世界卓球選手権で優勝した松崎さんは、2年後の1961年に北京で開かれた同大会の女子シングルスでは惜しくも3位でした。しかし、勝っておごらず、負けてくじけず、どんな時も微笑み絶やさなかったその戦いぶりが、多くの中国人卓球愛好者に深い印象を与え、「松崎キミ代さんのように優雅に笑える人になりたい」というブームまで沸き起こったほどでした。このような松崎さんに今回と次回、2回に分けて、その卓球人生と卓球で結ばれた中国との絆を伺います。

 1971年、名古屋をステージに展開された「ピンポン外交」がその後の中米、中日関係、ひいては世界情勢に大きな影響を与えた出来事として、現在もよく語られていますが、実は卓球を通しての中日民間交流はその10年にも遡ることができます。松崎キミ代さんがその代表格の選手です。

 松崎さんは1938年、四国の酒屋で6人姉妹の長女として生まれ、物資不足の戦後に少女時代を過ごしました。跡取り娘として見なされたため、両親にとって、家事や酒屋の仕事を手伝う上での重要な働き手でした。こんな中、「リズミカルな音と放物線を描く軌跡に吸い寄せられたように」、卓球に魅了されたきみ代少女の卓球部への入部には、両親の説得という大変な作業がありました。

 卓球と出会ったことにより、次から次へと「人生の分岐点」を迎える松崎さん。その卓球人生の中で、中国とも固い絆で結ばれました。

 1961年、北京で開かれる第26回世界卓球選手権大会の出場で、香港経由で中国に入り、試合とその後の各地への友好交流試合で、2か月も滞在しました。前回の世界チャンピオンだった松崎さんは女子シングルスの種目で、惜しくも3位でした。しかし、その後、思いもよらなかった展開がありました。今回のインタビューでは、元世界チャンピオンで、数々の卓球愛好者に影響を及ぼした松崎さんに、卓球と出会った前後のことを振り返っていただきます。

 以下の写真は松崎さんより提供。上から、①1961年4月、中国政府が日本代表団のために開かれた歓迎会で周恩来首相との記念写真、②第26回世界卓球選手権北京大会授賞式の様子、左端が松崎選手、③1961年4月、北京を離れる前に、歓送会で周恩来首相と隣の席に座る松崎選手)  

【プロフィール】
松崎 キミ代(まつざき きみよ)

元卓球選手。
1938年6月生まれ。香川県高瀬町出身。
専修大学卒業。戦型はペンホルダー、表ソフト、前中陣型。

1959年 世界卓球選手権大会(ドルトムント)シングルス優勝、ダブルス2位、混合ダブルス2位、女子団体優勝。
1961年 世界卓球選手権大会(北京)シングルスベスト4、ダブルスベスト8、混合ダブルス(荻村伊智朗とのペア)優勝、女子団体優勝。
1963年 世界卓球選手権大会(プラハ)シングルス優勝、ダブルス優勝、団体優勝。

現在、関東学生卓球連盟会長

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