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5月16日 火曜日

2017-05-16 17:54:42     cri    

 1時間目 国産中型ジェット旅客機「C919」テスト飛行成功、海水稲の作付け試験開始

 担当:王小燕、斉鵬

 放送局近くの彫刻公園では、ボタンの花がきれいに散ってしまいましたが、シャクヤクの花はまだ咲き誇っています(写真)。この頃、北京の昼間の気温は30度を超えた日も多く、初夏が訪れています。

 今週は最近、中国で注目されている「旬な話題」2本立てです。空の動きとして、5月5日に初のテスト飛行に成功した国産中型ジェット旅客機「C919」の開発動向を取り上げます。続いて、地上の動きに現在、青島で試験中の耐塩性稲「海水稲」の開発状況をご紹介します。

 5月7日に正式に設立された「青島海水稲研究開発センター」は今、ハイブリッド米の開発で世界にその名を知らしめた袁隆平さんを筆頭に「海水稲」の試験を行っています。0.3%の塩・アルカリ濃度に耐えうる高収量の稲を開発したく、1ムー(6.667アール)あたりの収量を現在の150キロから300キロに引き上げることを目指すということです。

 2時間目 私にとっての戦争と平和~元中国人民解放軍日本籍兵士・砂原恵さんの半生①

 聞き手:王小燕

 今回はシリーズ企画「私にとっての戦争と平和」。今日から3回に分けて、元中国人民解放軍日本籍兵士、砂原恵さんの半生を紹介します。

 砂原恵さんは1933年、日本人両親の下で福岡に生まれ、6人兄妹の長男でした。5歳の時、父親が当時の「南満州鉄道株式会社」に異動するため、一家で中国の東北部に移住。ところが、日本の敗戦直前の1945年7月、父親が阜新の自宅で病死。その後、母子6人が日本行きの船が出る葫芦島を目指して、引き上げの旅が始まりますが、混乱から逃れるため、結果的に鉄道幹線に近い集落で住みつきました。集落の名は遼寧省北鎮県六台子村蘇家街。その後、「張栄清」と中国名をつけた砂原さんは15歳で、当時の「東北民主聯軍独立第九団「(後の「東北中国人民解放軍」)に入隊。その後、張栄清さんは「中国人民解放戦争」の多くの戦役に参加し、新中国建国後の朝鮮戦争の戦場にまで赴きました。

 本帰国は1955年3月。それまで、砂原さんは5歳から22歳までの17年間を中国で過ごしました。

 戦争が砂原さんとその一家の運命をどう変えたのか、時代の大きな流れ揉まれながらもたくましく成長し、健気に生き抜いてきた砂原さん。これまでの人生をどう振り返るのでしょうか。中国に多くの友がいて、今も3か月置き中国を訪れている砂原さん。その半生について、3回に分けてお話を伺います。今週はその第1回、大連や阜新で過ごした子ども時代の思い出、そして、敗戦直後の一家の様子などを伺います。

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