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2時間目 中日友好事業をライフワークに・神宮寺敬さんに聞く(下)

2016-12-13 19:40:29     cri    

 

 「私にとっての戦争と平和」シリーズ、先週に続いて、甲府市にお住まいの神宮寺敬さん(96歳)にお話を伺います。

 1945年8月15日。「天皇の放送があるから聞け」と命令を受けた神宮寺さんは、慌ててラジオをつけました。しかし、当時、東京から上海に向けられた電波は「普通の波長」でしたので、聞こえませんでした。

 その後、「すぐに帰ってこい」の命令で、上海郊外の真如にある通信連隊の本部に急いで戻りました。

 当時の神宮寺さんは250人の部下を率いる通信隊の中隊長でした。敗戦のニュースは、夜、少人数の将校たちが集まり、軍旗を焼却する時になってようやく現実味を帯びてきました。

 「軍旗は宮城で天皇陛下が自ら渡してくれたもので、天皇陛下の化身とされていました。大変な事態であることを感じました。負けたのは残念でしたが、これで戦争が終わって家に帰れるのかという正直な気持ちもありました」

 1946年1月、神宮寺さんは米軍艦で佐世保に着き、2年ぶりに日本に戻ってきました。部下の遺骨を家族の元に届け、中隊長の最後の仕事を片付けてから、復職した電電公社で組合運動に没頭する毎日でした。

 そんな中、神宮寺さんは「組合運動の本家本元のソビエットの情報を聞きたい」と思い立ち、短波ラジオの受信機を組み立てます。ある日ダイヤルを回していると、「こちらは北京放送です」という声が偶然に聞こえてきました。これが、神宮司さんと北京放送(現在の「CRI」)との、64年にわたる付き合いの始まりでした。

 その後、1953年に創刊した「人民中国」誌の購読も始めました。購読促進に尽力したことが評価され、1966年に「人民中国」社の招待を受け、戦後になって初めて中国の土を踏みました。当時は国交がなく、香港経由の訪問で、約一カ月も続きました。その時に北京での宿泊先の「民族飯店」の厨房で偶然に目にしたあるシーンに感動した神宮寺さん、これが「中日友好を生涯の仕事にしていく」との考えを固める出発点になりました。

 神宮寺さんは北京のホテルで一体何に感動したのでしょうか。また、両国国民の代々にわたる友好を続けていくために、何が大事なのか。戦争のむごさを実際に体験したからこそ、打ち明けることのできる心からの声をぜひお聞きください。

【プロフィール】

神宮寺敬(じんぐうじ けい)さん
山梨県日本中国友好協会 理事長
共同電設株式会社    会長

1920年 甲府市下積翠寺にて生まれる
1937年 旧制甲府中学卒業、逓信省 逓信専門学校を経て国際電電公社に入社。
1941年 現役兵として近衛歩兵第五連隊入隊、
1943年 前橋予備士官学校卒業後中国に派遣、歩兵157連隊通信隊長
1945年 上海にて敗戦、帰国後、国際電電公社復職。
1950年  共同電設(株)創立、社長。

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