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杉下兼蔵

2015-08-12 15:56:00     cri    
 中国国家檔案局は11日、公式サイトで『中国侵略日本人戦犯供述書選』第一回:杉下兼蔵を公表した。

 第一回の要旨に基づいた上で、杉下兼蔵の1954年11月29日の供述によれば、杉下兼蔵は1901年生まれ、日本・岐阜県出身。1932年2月に中国侵略戦争に参加したという。

 重要な犯罪行為は次の通り:

 1932年2月3日、「上海天楽寺の南方約8キロメートルにある某村で、中隊の命令により村全体を銃撃し、中国人民30人を殺害した事件を引き起こしたと推測される」。

 1932年2月5日「中国人を敵視する心理」が生じ、「100人斬りを決定」し、「同時に、部下にもこのようにやるよう命じた」。「上海江湾鎮・復旦大学の裏通りにある北街口で、私は自ら7歳ぐらいの子供を1人捉えた後、その子を石の上に置き、更に石で叩き潰して殺し、近くの川にその死体を投げ入れた」。

 1932年2月19日、「陸家橋の火災から逃げて来た6歳ぐらいの子供1人を捉えた後、その子を入り口の石の上に置き、石で叩き潰して殺し、燃えさかる家にその死体を投げ入れた」。

 1932年2月25日、「上海江湾鎮付近の地区で、細菌を……計21箇所の井戸に投入した」。

 1932年4月20日、「上海大場鎮の南側約1キロメートルにある陣地内で……師団が中国人の庶民10人を仮の敵として連れてきたので、部下の第二小隊の兵士60人を使い、小銃や軽機関銃で仮の敵を全員射殺した」。

 1932年4月21日、「上海市呉淞路の北側にある映画館前の娼婦館の中で、私は拳銃で脅しまた空砲を鳴らして、17歳の女性1人を強姦した」。

 1937年10月3日、河北省堯山村で砂河を横切る際、「15歳ぐらいのラクダを引いた男の人1人を見つけ」、部下に命じて「拳銃で射殺させた」。

 1937年10月30日、「河北省賛皇城に侵入し、北関から大庙前までの大通りにある某商店の中で、30歳前後の中国人男性1人を、軍刀で胸部を刺して殺した」。更に「40歳ぐらいの男性2人を見つけ、私は14年式拳銃で4発を連射し、その2人を射殺した」。

 1937年11月5日、「山西省昔陽県松登村の村内で……50歳余りの中国人1人が村の西の外れから走ってきたので、部下に命じて「拳銃で射殺させた」。

 1937年11月7日、「楡次の北西方向にある六堡鎮で、私は中国人2人にお前は誰だと聞いた後、自ら拳銃で射殺した」。

 1937年11月8日、楡次県龍田村で、1人の仲間が「突然怪我をしたので、村内を全て検査し、また村民7人を捕らえた。その中の1人を師団司令部に引き渡し、残りの6人をこの村の北約2キロメートルにある耕地内の木に縛り付け、部下の二つの分隊に命じ小銃や拳銃で射殺させ、私は自ら拳銃で2人を射殺し、また、軍刀で再度刺し殺した」。

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