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中国の都市づくりを上海から発信
ーー建築家 中村誠宏さん
【中村 誠宏(なかむら のぶひろ)】
上海建築設計事務所A-ASTERISK / AA設計 総経理。
1977年神奈川県生まれ。2002年早稲田大学理工学部建築学科大学院卒業。同年、山本理顕設計工場に入社。05年退社して上海で設計事務所「A-ASTERISK」を設立、09年上海志賀設計と合併し「A-ASTERISK / AA設計」に改組。ユニークなセンスで上海、成都、チチハル、大慶など中国全土の都市づくりに挑んでいる。
主な受賞歴
2005年 JCDデザイン賞招待審査員特別賞
2007年 APIDA(亜太室内設計)賞公共部門大賞
2009年 SDAデザイン賞招待審査員特別賞
2009年 中国現代装飾賞公共部門大賞
主要作品
XKF-Conversion(上海海泰国際ビル)、チチハル扎龍温泉、成都工業投資集団総本部など
巨大都市、上海。
旧市街地にある元工場の社屋は改築されて、今はおしゃれなオフィスになっている。6階建ての4階、400平方メートルほどのオフィスが日本人建築家、中村誠宏さんの事務所だ。
天井が高く、採光も良く明るい。17人ほどのスタッフと同じ部屋に机を並べ、社長の中村さんはパソコンの前に釘づけになり作業に取り組んでいる。
ここで設計された建築の数々は、都市化が急ピッチで進む中国全土に点在している。現在、中村さんとスタッフ一同が日夜取り組んでいるプロジェクトは、大慶市の住宅地区、チチハル市の温泉施設や、成都市の国営企業から発注を受けた複合オフィス施設だ。成都のプロジェクトは敷地面積2万平方メートル、延床面積約21万平方メートルもある。
■最初は中国が苦手だった
――初めて中国に来た時の印象は?
1998年、アジア的な建物や生活が見たくて、旅行で初めて中国に来ました。正直、少しガッカリしましたね。北京は超高層ビルがそびえており、世界のどこの町とも変わらない都市で「神秘的なものが何もない」と思いました。
――大学院卒業後、働き始めて2週間目にはもう北京で仕事をしていたと聞きました。
入社してすぐ、北京のビジネス地区(CBD)にある「建外SOHO」のプロジェクトチームに入ったからです。ビザの関係や本社とのやり取りもあり、3カ月に1回帰国する必要があったのですが、その帰国が待ち遠しくて。
実は卒業式の時、ちょうど大学の先生と食事をしていたところに、就職先の事務所から電話がかかってきて、いきなり聞かれたのが「中村君、中華料理は好き?」でした。何か嫌な予感がして、「嫌いです」と即答しました。本当は嫌いではなかったんですが(笑)。当時は、就職したらまず日本で働くのが当たり前だろうと思っていたので…
――心の準備もできないうちに、北京に追い出されてしまったようですね。
最終的には自分で「行きます」と言ったのですが、実際はそうでしたね。北京に行ってからは、言葉は通じない、食事は合わない、勉強はできない、成長もできない。けれども仕事をしなければいけない。まるで周囲に取り残されたような疎外感に包まれていました。
――でもその3年後に、中村さんは事務所をやめて中国で起業しました。この間に何が起きたんですか。
建外SOHOの仕事が終わり、本社が私にカタールのプロジェクトをやらせるということで、一旦日本に帰ったのですが、結局そのプロジェクトがなくなってしまいました。
実は、北京に赴任して1年半経った頃から、いつものように日本に帰っても、なぜか体が疲れやすくて、何をしてもテンションが上がらない。しかし、北京に戻るとそれがなくなる。何回もそういうことを経験すると「もしかして中国の環境が自分に合っているのか」と思ったりしていました。
活気あふれる中国になじんでしまい、成熟社会の日本が少し落ち着き過ぎているように思えたのかもしれません。
■中国ビジネス ポイントは友人作りと分かり合うこと
会社を辞めて北京に戻った中村さんは、最初は小規模な仕事しか受注できなかった。
チャンスの到来は、コンペに勝って受注した上海のビル改築プロジェクトだった。10年前にホテルとして建てられたビルをオフィスビルと商業施設に変身させる。骨組みは変えられないが、外観のイメージを一新しホテルの低い天井をオフィス用に高くしなくてはいけない。だからといって、建物を以前より重くしてもいけない。制限の多い難しい設計だった。しかし恐れずに立ち向かった結果、クライアントから良い評価を得て、その年の上海市優秀工程設計部門賞も受賞した。
クライアントと共に様々な可能性を検討する日本のサービス理念、そして設計者が竣工まで見る習慣のない中国で最後までケアする姿勢が中村さんの会社の切り札だ。
上海市虹口区の「XKF-conversion(海泰国際ビル)」
初陣で勝利を味わったものの、上海で設立した最初の会社は、法務や資金回収を気にかけなかったこともあり、自分が追い出されるような格好になってしまった。10年間の中国滞在で設立した会社のうち、3社目に当たる現在の事務所は、仕事を通してめぐり合ったビジネスパートナーとの提携で誕生した。09年の発足後、現在まで安定した経営が続いている。
――中国でビジネスを成功させるには、どのようなポイントがありますか。
まずは現地の友達をたくさん作って、中国の人たちと直接付き合うことですね。ケンカしたり、お酒を飲んだりしてお互いの考えを直接ぶつけることです。
それから「分かり合うこと」です。今のビジネスパートナーの金清源さんは10年間も日本で留学、生活しています。彼は日本の建築事情に詳しく、習慣も良く理解しています。私はデザインについては比較的強いものの、中国事情には詳しくなく、お客さんと個人的な話を交わしながら、深くまで入り込むことも得意ではありません。そういったところを金さんが補ってくれるのです。
一度、会社を追い出される経験をすると、自分のしたいことや譲れないものが何か、よく分かります。お互いの権利、経営方針などを決め、双方の考え方を尊重しながらやってきたので、ここまでやって来られたと思いますね。
■新しい生活の創造を中国から
A-ASTERISK / AA設計の事務所の入口に、一風変わった模型が飾られている。上海の高層ビルの一棟一棟が一本一本の柱になり、高さ300メートルの上空で一体につながり、上海の上空にもう1つの「上海」が出来上がっている。
上海高層ビル模型
――なぜこのような発想をするようになったのでしょうか。
いま、上海の高層ビルは6000棟もあり、現在でも凄まじい勢いで増え続けています。世界のどこを見ても上海ほど高層ビルが密集しているところはない。こうした特殊な現状を踏まえて、少し新しい都市のコンセプトを考えてみようと思って作ったのがこの模型です。
――同じ設計の仕事でも、中国と日本とで一番違いを感じた点は?また中国で仕事をする上での魅力は?
圧倒的に違うのは規模ですね。東京でビル1棟を建てる場合、せいぜい数万平メートルですが、中国では数十万平方メートルが普通です。もし旧市街地の再開発になれば、もう町全体の規模になります。
建築が都市に、あるいは都市に暮らす人々に与える影響で言えば、中国は日本の10倍どころではなく100倍ぐらいになると思います。それだけ中国には新しい生活を作り出す可能性が潜んでいるわけです。もちろんその分だけ責任は莫大で、慎重に検討するのですが、それでも非常に大きな魅力を感じます。
――そもそも中村さんは「建築家」をどのような仕事だと考えていますか。
建築家は、芸術家だとも、技術者だとも言われていますが、私にとっては、お医者さん、あるいは薬剤師に似ている気がします。相手の状況をよく分析した上で、必要に応じてその場所に適した建物を設計することです。
――最後に、中国での仕事の展望を聞かせてください。
高齢化対応や、ゆとりある生活の追求が今後の中国社会の大きな方向です。それに適した設計、それを導く設計をして行きたい。リラクゼーションサービスを提供するSPAや高齢者に関する施設に注目しています。それに加えて、ハードだけでなく、運営などソフト面にも日本の経験を生かして、中国と一緒にやって行けたらと考えています。
中国には大きな可能性を感じています。(路晗)
【一言問答】
1.一言で言えば、中国はどんな国ですか?
速くて大きい国です。
2.中国の印象を3つのキーワードで表すと?
速い、大きい、楽しい
3.中国に住んでいて、一番楽しかったことは?
人と人の関わりです。人間同士、友達同士の距離が近いです。互いに考えをぶつけ合えるところが楽しい。
4.十年後、どこでなにをしています?
上海で仕事を続けていると思います。
5.中国に来たばかりの日本人に一言アドバイスを
日本人コミュニテイの中にこもるだけでなく、中国人の友達をたくさん作ってください。
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