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北京日本人学術交流会代表の山口直樹さんにお話を伺います。
高校時代の物理の先生に惹かれて、大学は物理学専攻に進んだ山口さんは、社会科学への関心も捨てることができませんでした。2つの関心を両立させる学問は?と模索している内、たどり着いた答えは「科学技術史」でした。
第二外国語はドイツ語だったので、当初の興味はドイツのPTRという研究所の歴史でした。しかし、岩波書店の学術雑誌『思想』で、ルイス・パイエンソンという科学史家の書いた論文「科学と帝国主義」との出会いから、近代日本が植民地にしていた「満州」の科学研究所の歴史研究に転換。植民地の統治者の側だけでなく、植民地にされた側、つまり中国側がこの科学研究所のことをどうとらえているかを知りたくなり、中国語を勉強し始め、2003年から北京大学に留学。その後、日中学術交流の草の根組織として「北京日本人学術交流会」を立ち上げました。
今週は日本に植民地にされていた時代、中国の東北地方にあった「満鉄中央試験所」の歴史や同研究所最後の所長である丸沢常哉氏という人にスポットを当てます。
山口さんによりますと、丸沢さんは東京帝国大学工学部応用化学科卒。ドイツ留学後、九州帝国大学工学部応用化学科の教授になりますが、万有還銀術のスキャンダルで辞職。その後、旅順工科大学教授や大阪帝国大学応用化学科教授を経て、満鉄中央試験所所長となります。
日本が敗戦を迎えた時、満鉄の多くの上層部は、ソ連や中国に接収されるぐらいなら研究成果を残さない方がいいという判断から資料を燃やすように指示しました。そんな中、丸沢氏は、そうした指示に逆い満鉄中央試験所の研究成果をそのままソ連や中国に引き渡そうとしました。丸沢氏は、「科学研究の成果は人類共通の遺産だ」と考えていたようです。その後、1955年まで中国に残った丸沢氏は、10年にわたり中国人技術者を教育したり指導したりしました。
実は1955年、日本に引き上げる直前の丸沢さんに北京放送はインタビューしたことがあります。音声という形では残されていませんが、山口さんはその取材内容をつづった文字の記録を持ってきてくれました。
植民地支配をする立場にいた科学者が過去の歴史をどう振り返り、そして、できたばかりの新中国をどのようなまなざしで見つめていたのか。山口さんの注目した中日の交流史をどうぞお聞きください。
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1954年、日本のマグロ漁船、第五福竜丸の被曝事故を受けて、日本で制作された映画「ゴジラ」。この映画は去年、ハリウッド版2作目が制作され、中国でも公開され、人気になっています。
ところで、「『ゴジラ』と満鉄中央試験所、この2つは私の中ではつながっている」とおっしゃる山口さん。最近は「ゴジラ行脚」と言って、北京の大学で『ゴジラ』に関する講演会を無料で実施しています。かくも大きなエネルギーを「ゴジラ」に注いだ理由は何か?
あわせて、2008年に発足し、これまでに160回あまりの回を重ねてきた「北京日本人学術交流会」の活動についてもお話を伺いました。
(左)北京日本人学術交流会の会場の様子
(右)映画 「ゴジラ」 シリーズ第一作(1954年)に青年・尾形の役で主演した、俳優の宝田明さん (左) と、ゴジラのフィギュアを手にする山口直樹さん (2014年8月、東京で)(写真提供:山口直樹さん)
【プロフィール】
山口 直樹(やまぐち なおき)さん
東北大学理学部物理学科卒業後、塾講師、新聞記者などをへて東北大学大学院で研究を行う。日本学術振興会特別研究員や大学非常勤講師を経て2003年、北京大学科学与社会研究中心に博士研究生として留学。専門は科学技術史(近代日本植民地科学史、近現代中国科学技術史)、科学技術社会論。2006年には、小、中、高校の先輩にあたる大島みち子の戦後日本におけるベストセラー『愛と死をみつめて』の中国語版コーディネートを行う。
最近の主な論考
『在中日本人108人のそれでも私たちが中国に住む理由』(2013年出版)の中で「語学留学にとどまらない研究留学の必要性-毛沢東からゴジラまで」、『日中関係は本当に最悪なのか』(2014年出版)の中で「サービス革命の現場-火鍋チェーン店の挑戦」など。
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