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一時間目 湖南省鳳凰県の南方長城

2015-01-23 16:34:06     cri    

湖南省鳳凰県、南方長城


 中国の南方長城は、南が湖南省吉首市鳳凰県と貴州省銅仁市の境にある亭子関から、北が吉首市の喜鵲営まで総延長191キロ、そのほとんどが鳳凰県域内にあり、かつては「苗疆辺牆」と呼ばれていました。

 明の時代になってからまもなく、中央政府が各地に兵を派遣して西南地方の少数民族を平定しました。1554年、明朝は統治の便宜のために、ミャオ(苗)族に対して、アメとムチ政策を実施しました。朝廷の統治に服従するか否かによって、ミャオ族を「熟ミャオ」と「生ミャオ」に区別し、さらに、ミャオ族の集中する湖南省西部の山地に長城を建設し、ミャオ族を分けたのです。この長城は、明の時代1623年に完成しました。

 亭子関は文字通り、かつて長城の関所でした。山の斜面にあった関所は失われ、現在は村落になっています。今は、石畳の道に城門の跡を見ることができます。門の枢軸、敷居、崩れた垣などです。亭子関を囲む城壁は石で築かれ、遺跡の高さは3、4メートル、昔の姿がほぼ完全な形で残っています。城壁の上にあがると、一定の距離ごとに壁から突き出た砲台が見え、数百年前の雄大な姿が想像できます。さらに、城壁のそばにある小さな寺には、かつて南方の長城に駐屯し、この地を守っていた将軍・楊氏3兄弟が祀られているそうです。  南方長城のことを熟知している鳳凰県文物局の専門家・龍通燕さんによると、この長城沿いの軍事施設は相当数に上り、これらの建築物は、千以上の村、やぐら、城、歩哨所、砦などからなっているといいます。明・清(1616〜1911年)時代、長城の外側には防御設備が並び、内側には進撃、防御、指揮、生活を考慮した仕組みが完備していました。代表的なものとして、鳳凰古城や黄糸橋古城が挙げられます。

 拉毫営盤は南方長城の防御構造の一部分であり、明の嘉靖年間(1522〜1566年)に建設が始まりました。山に沿って築かれた拉毫営盤は南を背に、北を向き、視界が広く、苗疆辺牆ラインにおいては重要な拠点であり、軍事の要衝でもありました。「辺牆」とつながっているため、各やぐらと連絡ができ、指令を発信するなど、敵を阻止する役目を果たしました。

 営盤寨(村落)の中の建築は独特で、部屋の壁はすべて黒い石板を積み重ねて整然と築かれています。建築物の間は独立している状態で、とくに一部の建築物は屋上が薄い石板でつくられ、個別の防衛機能を備えたほか、防火の効果もあります。この絶妙な建築様式は、「石盤寨」と呼ばれています。

 唐の時代、678年に建設が始まった黄糸橋古城は湖南省西部の長城において、保存状態のもっともよい長城です。歴史上、兵士が駐屯していたこの大きな長城は、歴代統治者が西部のミャオ族の人々によるトラブルに備えた歩哨陣地であり、戦略上の要地でした。この古城は高さ5.6メートル、厚さ2.9メートル、幅2.4メートルで、一種の石灰岩で築かれ、石の表面は平らで、精密に磨かれ、凝った技術が施されています。建設時に、もち米と石灰を混ぜて作ったのり状のものを隙間に入れてあるため、686メートルに及ぶ城壁は頑丈です。城壁の中には、当時の役所、兵舎、民家がいまでも残っています。駐屯していた軍隊の兵舎は土で作られていますが、壁が厚くしっかりしているため、数百年を経ても昔のまま崩れていません。これらの遺跡に、各時代の住民の生活風景や建築様式の変遷が反映されています。

 千年の歴史を持つ鳳凰古城は清らかな沱江のほとりにあり、南方長城の建設の際、長城の防御構造に組み込まれ、古くから貴州省と湖南省の境の要衝とされてきました。清の中期以降、中央から派遣され駐屯した軍事及び政治要員、また文人も次々とここにやってきました。すべての建築は工夫を凝らされた構造になっています。現在の鳳凰古城は、トゥチャ(土家)族独特の民家「吊脚楼」が沱江の水面に映り、重なり合う山々を水が流れ、静かで美しい忘れ難い江南水郷の絵巻を織りなし、各地観光客の憧れの観光スポットとなっています。

 皆さん、中国の南方長城に興味をお持ちなら、是非、湖南省の鳳凰県を訪れてください。

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