1122
|
担当:王小燕、高橋恵子
「旬な話題」では2つのトピックスを取り上げます。まずは、APEC会議で北京を訪れた安倍首相の昭恵夫人関連の話題。北京で約20年前から開かれている中国人指導者による中国人向け日本の将棋教室を視察した時の様子を紹介します。
(写真左)昭恵夫人に教室の概要を紹介する指導者の李民生先生(右)
(写真右)現在、教室に通っている最年少の幼稚園児、孫君(5歳)
続いて、中国最大のソーシャル・ネットワーキング・サービスを提供する「テンセント」社が主催した「WEカンファレンス」に招かれて、北京を訪れた日本人のフリープランナーの加賀谷友典さんのお話を紹介します。2000人余りが出席し、インターネットでも生中継されていたこの大会は、「Nothing But The Future」をテーマに、人工知能、ブレイン・マシン・インタフェース、遺伝子技術、宇宙旅行などの分野で世界トップの専門家12人が招かれました。その中の1人がかわいらしい白とピンク色のネコミミを付け登壇した日本人、加賀谷さんでした。加賀谷さんは脳波で動くネコミミ" necomimi"の開発者で、「ニューロウェア」という脳波測量技術を生かした商品開発をしているプロジェクトの共同創業者です。北京訪問の感想、そして、大会での講演で感じた手ごたえについて、燕アナが伺いました。(写真左は加賀谷友典さん)
「スペシャル・バスケット」は北京市対外友好協会が主催した写真コンテストで優秀賞に輝いた中山孝蔵さんを紹介します。入賞したのは、食事をした場所の女将さんのこぼれんばかりの笑みをシャッターで収めた1枚でした。同じ撮影愛好者と言っても、中国人と日本人では違いがあるようです。アマチュアながら、この道20年のベテランである中山さんを恵子アナが取材しました。
2014年6月、中山孝蔵さん撮影
2時間目「CRIインタビュー」(「私の体験した中日の友好交流」~八木鉄さん)
聞き手:王小燕、高橋恵子
先週のゲスト、八木鉄さんの父親と同じく、CRI(北京放送)日本語放送の立ち上げに携わっていた呉克泰氏(旧名は詹世平)の御嬢さん・詹志芳さんにお話を伺います。ぜい沢なことに、名古屋を舞台に展開したピンポン外交の現場で通訳をなさっていた鉄さんに、今回のインタビューで、通訳を担当していただきました。
同じ年に生まれ、2か月しか誕生日が違わない鉄さんと志芳は、同じ社宅で育ちました。国際放送局ですから世界各国の局員が一緒に住んでいました。そして、社宅の庭には、日本人のお母さんも2人いました。その日本人のお母さんに教わった民謡、ごちそうになった食べ物は、志芳さんにとって今も忘れられないものだと振り返ります。
ところで、志芳さんは小さい時から「中国国内の東北人、河北人の家へ遊びに行くような感覚で、日本人の八木家へ良く遊びに行っていた」ものの、インタビューを受けた時点では日本には一度も行ったことがありませんでした。アメリカへ行く時に、トランジットで何度も日本を経由していたにもかかわらず。何が志芳さんをそのようにさせたのでしょうか。そして、この秋、ついに志芳さんは初めて日本に行きました。その時に実際に体験した「日本」とは?一北京市民として、志芳さんの目に映った中日友好への思いも伺いました。詳しくは、ぜひ番組をお聞きください。
【プロフィール】
詹志芳さん
1950年 北京生まれ
父親は台湾生まれで、中国国際放送局(北京放送)日本語組組長をしていた呉克泰さん。
北京で小学校、中学を卒業後、1968年に知識青年として山西省運城臨猗県の農村に下放され、1973年に山西大学数学学部を卒業。
放送科学研究所、中央テレビでの仕事を経て、現在は中華海外聯誼会理事で、中国身障者連合会代表大会代表。
八木鉄さん
1950年北京生まれ(父親の八木寛さんが、1949年から中国国際放送局で対日放送の仕事に従事)
1970年 両親と共に日本に帰国。
東京の職業訓練学校を経て、就職し、中日のスポーツ交流の現場で通訳としても活躍。
1973年~1981年 日本国際貿易促進協会、
1981年~2005年 東洋信託銀行
2005年~2006年 蘇州日中架け橋経済発展有限公司
2008年~2012年 コベルコ建機
北京、蘇州、成都での長期駐在を経て、2012年に定年退職。
現在は『光陰 矢の如し』と題した自分史を中国語と日本語の二か国語で執筆中。
© China Radio International.CRI. All Rights Reserved. 16A Shijingshan Road, Beijing, China. 100040 |