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中日関係を長くテーマに

2014-08-13 12:58:55     cri    

――まず、中国や中国語と出会ったきっかけをお聞かせください。

藤田 私は最初は日本古代史を研究する夫を手伝って、中国語で文献の翻訳をしていました。その後、中国人学者が扶桑社の新しい歴史教科書の間違いを指摘した『日本の教科書の歴史観を問う』(藤田友治・王金林編著)や、『中国からみた日本の古代』(沈仁安著)を夫と共訳しました。外国語大学に編入し、本格的に中国語を習い始めた頃に、『人民中国』を講読し始め、中国語歌詞の紹介ページを見て、CRI日本語放送を聴くようになりました。

粟屋 僕は高校時代にエドガー・スノーが中国革命について書いた本を読んだこともあり、中国語や東洋史に興味がありました。結局、日本史に進みましたが、中国や日中関係も僕の一貫したテーマでした。

 立教大学で教えていた時期、『昭和の政党』を書きました。そして印税でワシントンに行き、米国立公文書館所蔵の東京裁判の国際検察局(IPS)文書を2カ月かけて、体系的に読みました。いろんな発見があり、帰国後に次々と論文を発表しました。中でも、毒ガスは第一次世界大戦の欧州で大々的に使われていたが、第二次大戦では使われなかったというのが軍事史の定説でしたが、僕は、日本が対中国戦争の中で、各地で毒ガス戦をやっていた資料を発掘しました。そのことは朝日新聞などに取り上げられ、中国でも大きく報道されました。  僕が一番やっているのは東京裁判の研究です。一昨年、上海交通大学に東京裁判研究センターができ、僕も名誉教授として招かれ、今は年に2回中国に来ています。

村田 僕は1946年川崎の農家の生まれ。郷土史への興味から日本史を勉強しようと思って、第2外国語に中国語を選びました。

 当時、東大の中国語クラスはEクラスと言って、工藤先生というたいへん面白い先生がいて、彼の下で中国に次第に興味を持つようになりました。僕が大学4年生の時に全共闘運動が起こり、中国文学科の学生が3人も逮捕されたので、その救援に僕も奔走しました。その後、中国帰りの大塚有章先生の息子が編集人を務める『月刊毛沢東思想』の編集にかかわり、1971年12月に大塚先生を団長とする日本人青年約30人の訪中団で初めて中国に来ました。

 雑誌の廃刊後、大塚氏から「労働者になれ」と言われ、いつか出版の仕事をしたいと思って、まずは印刷工になりました。一方、中国では四人組が逮捕され、大きく変わりました。もう一度基礎から中国を研究しようと思って、大学院に入り直して、研究者として再スタートしました。  

宮内 僕は村田さんの1年下の後輩です。卒業後に総合商社に入社。最初に中国に来たのは1976年10月、四人組の逮捕から1週間後のことでした。その後、北京には2回、上海に1回駐在しました。それがちょうど終わった時に、東大北京事務所所長の公募に応募し、2007年からまた北京で仕事をすることになり、今に至っています。

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