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7月18日 金曜日

2014-07-18 19:11:10     cri    

一時間目 世界遺産めぐり、清王朝の陵墓、西陵


 北京の南西約100キロに、河北省易県に清王朝の皇室の陵墓、西陵があります。これは1730年に建築されました。その後、1911年、最後の皇帝・溥儀のために建設された陵墓も、間もなく完成するところでしたが、清王朝の崩壊により工事は中止されました。以来、ここは荒れはてています。

 清の西陵の16カ所の建築のなかには、4つの皇帝陵があります。つまり、雍正帝の泰陵、嘉慶帝の昌陵、道光帝の慕陵、光緒帝の崇陵です。このほか、3つの皇后陵、3つの妃の陵、親王の陵墓があります。ここに埋葬されたのは、4人の皇帝、9人の皇后、57人の妃、皇子、親王、合わせて76人です。

 清の西陵にある陵墓は、いずれも南向きです。中央に配されたのが泰陵で、その東側が崇陵、西側が順に昌陵と慕陵です。皇帝陵の周囲には、皇后の陵墓と妃の墓が配されています。

 4つの皇帝陵の建築様式や配置は基本的に似ていますが、その規模や様式の違いは、当時の政治・経済の状況を反映しています。

 清王朝が東北地方から山海関内に「入関」して以降、最初の皇帝・順治帝は、現在の河北省遵化市の昌瑞山のふもとを陵墓として選びました。それは清の東陵です。第2代の皇帝、康煕帝も東陵に埋葬されました。

 清の雍正帝は、入関後の第3代皇帝です。その祖父と父が埋葬された東陵を選びましたが、この地の地質状態がよくなかったため、結局は風水の占いや地質状態のよい河北省易県の太平峪を選んで、そこに陵墓を建てました。そこから、北京近くの清王朝の第2の皇室陵墓ができたのです。

 泰陵は、清の西陵のなかでもっとも早期の建築であり、規模最大の陵墓です。南側にある鳥居の形をする火焔牌坊から、北端の宝頂、地宮まで、1.5キロにわたる神道とその両側には、石牌坊、大紅門、石橋、華表(装飾用の巨大な石の柱)、石で彫られた人や動物の像、碑亭、隆恩門、隆恩殿、石祭台、方城、明楼など、合わせて61の建築物と彫像が配されています。泰陵の工事は8年にわたり、費用は銀240万両以上にも上ったといいます。

 泰陵の多くの建築物のなかで、もっとも特色のあるのが、大紅門南側の石牌坊です。1つの皇帝陵に一つの牌坊しか設けられないという歴代の決まりを打ち破り、そこには同じ大きさの石牌坊が3つ建てられています。いずれも高さ12.75メートル、幅31.85メートルです。3つの牌坊のうちの一つが南向きで、ほかの2つがそれぞれ東西を向いています。北側の大紅門と合わせて、四角い中庭を形づくっているのです。これは、清の皇帝陵のなかでも唯一のものです。牌坊の台座、額坊(上部の文字を刻んだ部分)には、いずれも精緻な飾りもようや竜、吉祥の獣などの図案が彫刻されています。また、石牌坊の上部には、いずれも彫刻がほどこされた重さ数十トンの巨大な石が使われており、260年の歳月を経て、いまもそびえ立っています…

 中国最後の王朝の清の最後の皇帝・溥儀も、即位した後、清の西陵に陵墓が建設され始めました。1910年、陵墓の基礎工事が行われましたが、その1年後に清王朝は崩れ、工事は中止されました。歳月が経ち、風雨にさらされ、いまでは陵墓の跡もありません。溥儀は1967年、病で亡くなった後、火葬され、その遺骨は北京の八宝山革命公共墓地の遺骨堂に納められました。1995年、妻が彼の遺骨を、河北省易県に民間経営の陵墓へ移しました。この陵墓は、清の西陵の文物保護区内にあり、光緒帝の崇陵とは目と鼻の先、たがいに向かいあっています。ここは、世界文化遺産のエリアには含まれていませんが、「自分が死んだら西陵に埋葬してもらいたい」という溥儀生前の願いを果たしたものです…

二時間目 河北省易県のその他の観光スポットとグルメ


 二時間目は、河北省易県の地形や気候などの基本情報をご紹介します。その後、清の西陵へのアクセス方法などをご紹介します。次は、清の西陵の周辺のその他の有名な観光スポットをご紹介します。さらに、現地の代表料理、驢馬肉火焼(ロバ肉バーガー)をご紹介します。ぜひお聞きください。(任春生)

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