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世界文化遺産、重慶大足石刻
中国には、雲岡石窟、龍門石窟、莫高窟などがありますが、中でももっとも中国らしさがあるのが大足石刻です。大足石刻は他の石窟に比べ遅い時代に作られたものだからです。もともとインドから伝わって来た仏教文化である石窟は、インドからの影響を強く受けていました。それが長年中国で作られている間に中国化していったのです。この大足石刻には中国発祥の文化である儒教、道教の石像が多く残されています。また民間の風俗を表現したものも数多く残っており、中国ならではの雰囲気を伝えています。
深い山の奥にあるため、大足石刻は交通の便がよくありません。このため、人的破壊を逃れ、これほど多くの石像を残すことができたのです。
山の奥に隠れた宗教の世界には、世俗を離れた清い空気が残されています。では、今日の中国の世界遺産めぐり、重慶市の大足石刻をご紹介します。
四川省から重慶市にかけて横たわる四川盆地に、めずらしい古代石刻のギャラリーがあります。そのほとんどが広元、成都、楽山、安岳、巴中、潼南、栄昌、大足など、20数カ所の県と市に集中しています。石像はあまりにも多く、その総数は計り知れません。とりわけ集中しているのが重慶市大足県で、合わせて5万体以上の石像があるということです。1999年12月1日、大足石刻はユネスコの世界文化遺産リストに登録されました。
大足石刻は重慶市大足県にあり、重慶から約120キロ、バスで約2時間ですが、成都からは約280キロ、4時間半ぐらいかかります。大足石刻は殆ど唐代から南宋時代までにできた仏教関係の石刻で、大足県の宝頂山・北山・南山・石門山・石篆山などに集中していますが、今まで発見された仏像の石刻は10万体を超えています。一番集中している所は宝頂山と北山で、それぞれ仏像が1万体ぐらいあるそうです。1999年の12月、宝頂山と北山の仏像石刻が世界文化遺産に登録され、今では重慶のもっとも有名な観光地になりました。
なぜ大足でこんなに沢山の仏教像が造られたのかを知るには、当時の中国の社会事情を説明しなければなりません。唐の時代の末期、安史の乱の打撃で、唐王朝中央政府の力は大分弱くなったことで、地方には色々な軍閥が出てきました。人口と土地を我が物にするため、軍閥間で度々戦争が起こりました。中国黄河辺りの北方辺りは特に戦争が多く、民は生活できなくなったのです。そこで、沢山の農民や、学者、僧侶、彫刻師などが戦争を避けるために、当時比較的戦争が少なく、安定していた南方の四川省に逃げてきたのです。特に大足と安岳辺りは当時の四川省の政治、経済、文化の中心地で、また交通の要所だったため、多くの人がその辺りに住むようになりました。南方に住む人々は戦争が早く終るように、また、南方で戦争が起こらないようになどの願いを込めて、皆でお金を出しあい、北方からやってきた僧侶と彫刻師に頼んで、仏像を造らせました。そこから、唐末期から南宋時代までの凡そ400年間の仏像彫刻運動が大足とその周辺の県で続きました。できあがった仏像は今まで見つかっただけでも10万体ほどに上ります。また、大足の隣の県・安岳県にも10万体ほどの仏像が発見され、周辺の仁寿県、簡陽市、資陽市、楽山市などにも数多い仏像彫刻が見つかりました。
先週、日本語部の専門家、高橋さんが重慶で行われた重慶マラソンに参加していました。ついでに、重慶西部の大足県にも足を伸ばして、大足石刻を取材してきました。今日の番組では、高橋さんの旅のリポートを交えて、大足石刻をご紹介します。
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