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一時間目 世界文化遺産、南京の明朝陵墓・孝陵

2014-03-14 16:05:36     cri    

世界文化遺産、南京の明朝陵墓・孝陵

 明朝の陵墓、孝陵は、明の初代皇帝・朱元璋と、皇后の馬氏の陵墓です。孝陵は、江蘇省南京市の東の郊外、紫金山の中腹の南麓にあります。1381年に建設され、1413年に最後の「大明孝陵神功聖徳碑」という石碑を建設して完成しました。この間、32年の月日を費やしました。

 陵墓の場所を選ぶにあたり、孝陵は中国古代の「天人合一」という伝統的な哲学思想を受け継ぎ、建築物と自然環境の調和にこだわりました。孝陵の北鐘山を背にして、四方は山々にとりかこまれています。また、山河の地形をたくみに使って、風水の理念も取り入れられました。この文化と自然の結び付きは、それ以降も明・清時代の皇帝陵のモデルとなったのです。

 明の孝陵は「下馬坊」(ここから先は馬から下りないといけない場所を示す鳥居型の建築物)を起点にすると、そこから陵墓の中心建築物まで、道のりは3キロあまりに達します。下馬坊から陵墓の正門「大金門」までの間には、もともと陵区に通じる長さ750メートルの参道が続いていましたが、破壊されたりし、いまではその跡形もありません。また、陵墓全体が建てられたとき、その周りに長さ22.5キロ、高さ約4メートル、幅約1.5メートルにわたる「護衛城郭」が建築されたといわれました。しかし、今では、ただ大金門しか残っていません。

 大金門から北へ70メートルのところには、俗称「四方城」という碑楼(石碑を納めた楼閣)があります。天井はすでになくなりましたが、四方にはそれぞれアーチ形の門があります。中央には、高さ8.78メートルの石碑がありますが、それは明の成祖・朱棣が父の朱元璋の功績を称えるために建てたもので、「大明孝陵神功聖徳碑」と呼ばれています。

 石碑の建造には、次のエピソードがあります。甥の建文帝・朱允ブンの帝位を奪い、明朝の第3代皇帝になった朱棣は、権力を強化して、自らが「正統」な後継者であると顕示したいと考えました。そのため、親孝行を名目にして、死去した父親のために記念碑を建て、伝記を刻んだそうです。

 その石碑は、かつてない規模を求めたために、孝陵から25キロも離れた陽山へ工匠を送りこんで、石材を採らせました。朱棣が選んだ石材は、高さ62.8メートル、重さ千トン。着工してから9ヶ月かかっても運搬不可能だったため、その石材はあきらめざるを得なかったのです。

 孝陵の参道は、全長が千百メートルです。歴代皇帝が採用していた「直線コース」の参道とは異なり、それは地形にそって造られたために、くねくねと曲がっています。

 参道の石像は、前後の2段に分かれています。前段は、西北方向の参道の両側に、12組6種の吉祥の動物の石像がならび、後段は南北方向の参道の両側に、1組の柱と4組の武将や文臣などの石像がならんでいます。

 前段の参道脇にならぶ6種の吉祥動物の石像は、獅子、箋豸、駱駝、象、麒麟、馬であり、それぞれに異なる意義がこめられています。獅子は百獣の王であり、帝王の威風や尊厳を示します。箋豸は伝説の神獣で、是否を見分けることができ、法の象徴であるといいます。

駱駝は北方の砂漠に、象は南方の熱帯に生きているので、領土の広さと皇帝の権力が四方に及ぶという意味があります。麒麟は伝説の中で、平和や吉祥を象徴する神獣であり、ここでは、政治が公正であることを示しています。馬は人間に使われる動物であり、死去した帝王の魂が冥界で使うものです。

 これらの石獣は、それぞれが一塊の石材から彫刻されたもので、見上げるほどに大きく、なかには重さが80トン以上に達するものもあります。彫刻ラインは丸みを帯びてなめらかであり、しかも全体的な風格に勇ましさがあります。

 後段の参道は、高さ6.28メートルの一組の柱を起点としています。その後方にいならぶ武将や文臣などの石像は、高さ3メートルあまりの2組の武将像と、2組の文臣像です。武将は鎧を身に着け、腰には宝剣をさしています。文臣は頭に朝冠をかぶり、手には笏を持っています。いずれも孝陵の忠実な守護者であることを示す石像です……

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