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一時間目 世界文化遺産、高句麗政権の山城と古墳群

2014-02-21 21:02:58     cri    

 一時間目は、世界文化遺産に登録された高句麗政権の山城と古墳群をご紹介します。



  世界文化遺産、高句麗政権の山城と古墳群

 清の光緖3年(1877年)、碑文などに興味を持っていた1人の役人が、偶然、荒れ野の草むらの中から、巨大な石碑を見つけました。それは、千年以上も前に消失した古い国・高句麗が、再び私たちの前にその姿を現した瞬間でもあったのです。この石碑は、吉林省集安市郊外に立っている「好太王碑」です。   

 「好太王(広開土王)碑」の碑文や『魏書』『三国史記』などによると、高句麗の始祖とされる朱蒙については、次のように記されています。紀元前37年、東北辺境の少数民族であった夫余族の朱蒙は、遼寧省と吉林省を流れる、かつて卒本川と呼ばれた、現在の渾江辺りに逃れ、遼寧省桓仁の五女山に高句麗政権を建てました。そして、その3年後紀元前34年から、王城を築き始めました。

 漢の平帝・元始3年(3年)、高句麗の第2代琉璃明王は、現在の吉林省集安市に遷都し、都を国内城としました。その後、約400年、高句麗の国の都はこの地に置かれました。

 三国時代、曹氏の魏国と鮮卑族慕容氏の2度にわたる攻撃を受けたあと、北魏の始光3年(426年)、平壌に都を移しました。

 644年から、24年間の戦いの後、705年に及んだ高句麗政権は、唐王朝と朝鮮半島東南部の新羅の攻撃によって、その歴史を閉じました。現在、かつて高句麗があった地に広がるのは、雄大な山城と、万を数える古墳群です。

 五女山城は、遼寧省桓仁満州族自治県の県城(県政府の所在地)から東北に8.5キロ行った所にあります。山の標高は、約800メートルで、周りは切り立った岩壁です。

 山城を囲む、全長4754メートルの城壁は、その88%の4189メートルが、山の尾根や絶壁を利用して作られています。城の東、南、西の3方向には、それぞれ城門が建てられていました。

 今までの発掘によって、山城の3カ所で、宮殿、倉庫、祭祀場所の大規模な建築遺跡が見つかりました。城の中心部には、長さ12メートル、幅5メートル、深さ1.1~2メートルの貯水池があり、生活用水のために、山の水が蓄えられていました。また多くの半地穴式兵営や、歩哨所などの軍事施設の遺跡も発掘されました。

 五女山城は、中国北方民族の伝統的な山城建築の要素を受け継ぎながら、使う材料や、配置、築城には、高句麗の特徴が見られ、山に沿って建てられています。

 城壁づくりにも、高句麗独特の先進的な技術が用いられています。石を楔形に加工し、大きい端を外側、小さい端を内側にして積み上げ、内側からはさらに細長い石で何重にも押さえ、外への張力を減らして崩れないようにしています。

 城壁の上には、防御の機能を強めるために「女墻」と呼ばれる、凹凸の形をした壁が作られています。この建築形式は、東北アジア諸国や各民族の山城建築の発展に大きな影響を与え、後に日本へも伝わったのです。

 集安市にある国内城は、高句麗の第2の都です。高句麗は、国内城に遷都した時、城の北から2.5キロの老嶺山脈(長白山脈の支脈)の険しい地形を利用して、尉那岩城を築城しました。この2つの場所が、高句麗の都となったのです。国内城は、平壌に遷都する426年までの424年間、都としての役割を担いました。

 平地にあった国内城は、東は鴨緑江に面し、西には禹山がそびえ、当時の人々の理想的な居住地でした。その後、しだいに新しい都市が作られたため、今では、その一部分の城壁跡しか見ることができません。

 1万にも上る古墳を残した、高句麗政権705年の中で、歴史的価値がある代表的なものは、王陵と貴族の古墳です。

 高句麗は28代まで続き、21の王陵が中国にあります。集安市郊外の洞溝には、第2代から第19代までの18人の高句麗王が埋葬され、現在、専門家の考証によって、13人が判明しました。

 数多くの王陵のなかでも注目されるのが、第19代好太王の墓の近くにある「好太王碑」です。これは、息子の第20代長寿王が、父の功績を称えるために刻んだもので、高さは6.39メートル、凝灰角礫岩の一枚岩で作られた不規則な柱形の石碑です。

 碑の四面には、合わせて44行、1775文字が隷書体で刻まれています。碑文は、まず高句麗の創始伝説と、最初の3代の王の伝承関係、次の部分は、好太王の生涯の功績の記録、最後は、墓守りに対しての規定が記されています。「好太王碑」は、現在、高句麗の歴史を研究する際の重要な文献であり、考古学上、高い価値を持っています……

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