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この間、『あなたへ』という映画をみた。その中で一番印象的だったのは、故郷だった。高倉健が演じた主人公が妻のお骨を彼女の故郷にもって帰ったというよく演じられたストーリだが、なんだか日本の映画に出てくると、一種の感動が出てきた。
私は日本にいったことがないからあまり知らないが、ただこの映画で感じたのは、日本人が住んでいる田舎の町というものはほとんど変化していないということである。何年、何十年、ひいては何百年がたっても、ずっと昔のままで、いつ帰っても、変わらない店、変わらない道、変わらない人が故郷に待っている。その後、日本人に「なぜ、日本の町は何十年たっても、変わらないの?」と聞いた。その人の答えは、「日本という国は、ずっと単一民族、同じ天皇一家で、あまり変わっていなかったからだ。新しいビルを建てるなら、ほかの未開発のところに新しく建て、絶対に昔のものを破壊してそこに改めて建てることはしない」という。しかし、その理由はすごく大雑把なので私の求めるものではなかった。私がほしいのは何か心理的な答えである。
大学に入る前、私はずっと故郷にいたので故郷の変化にはほとんど気づいていなかった。けれども、大学で一年ほど暮らし久しぶりに故郷に帰った時、その大きい変化には驚かされた。川辺にある一面の畑は既に公園になり、また、うちの近くにあった古い団地も高層ビルにかえられてしまった。町はモダンになったが、そこはかとなく寂しさが沸いてきた。私が立っていた土地は故郷どころか、まるで初めて見る町の様子である。学生時代、毎日通ったパン屋、いつも混んでいた喫茶店など、すっかりほかのものに替えられてしまった。実は、これらの店は私が大学に入る前に既に変わったのだが、日々の大きい変化に隠されていて、なかなか気づかなかったのである。
このような状態で、今は大丈夫だけれど、何十年後あるいは何年か後、町がすっかり変わってしまうとなると、今私たちがやっていることをいくら反省しても無駄だと思う。その時、故郷と離れて暮らしていた私が再びそこに帰ったとしても、帰省とは言えないだろう。真新しい町の前に懐かしい親しさは何一つない。そしてあつい涙も、体の底に静かに眠って出てこない。かえって望郷の思いが深くなって、自分がどこに帰ればいいのかという自問自答がしばしば出てくる。その時、故郷のない私はそばに立っている子供に対して、話したい言葉を全てなくしてしまうだろう。
このように考えると、もしかしたら今の日本人は私たちよりも、子孫に伝えたいことが多く、分かち合いたいことがいっぱいあるからこそ、昔のものを破壊しないのかもしれない。
谷村新司の『サライ』という歌にこういう歌詞がある。「まぶたとじれば、浮かぶ景色が、迷いながらいつか帰る、愛の故郷。サクラ吹雪の、サライの空へ、いつか帰るその時まで、夢はすてない。サクラ吹雪の、サライの空へ、いつか帰る、いつか帰る、きっと帰るから。」
これに反してそろそろ私の帰るところは、どこにもないようになるのである。
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