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種の夢 【北京工業大学 萬奕】

2013-09-26 15:05:04     cri    

 「香ちゃんは種だ。希望の種だね。」先生はそう言ってくれた。

 「先生、子供たちは皆種ですか?」とわたしは質問した。

 「そうですね。子供たちは明るい種として、根を下ろしてから芽が出て、それから頑張って頑張って空高く聳える樹になるんだ。」

 幼稚園のとき、私の先生はこう教えてくれた。

 人材を育てるのは木よりもっと難しくて、長い時間をかけて育てなければならないでしょう。そのとき、私はまだ小学校の五年生だった。田舎の小学校で毎日勉強しながら、村の外の世界を想像してうれしくなっていた。そしてあれから十数年経った今は、あの小さい種が根づいて芽が出て、大木になっている。その種は自分の成長の物語の中で「中国の夢」を叶えたいと思っている。

 1999年、私は母が買ってくれた新しい鞄を持ってわくわくしながら小学校の教室に足を踏み入れた。クラスでは53歳の先生は方言だけを使って授業をしていた。その年の私の夢は、滑らかな共通語が言えるようになりたいというものだった。

 2003年、四年生になった。教員不足のため、私たちを教えてくれたのはわざわざ複帰してもらった退職者だった。その面白い年配の先生は頭がはげていて、繰り返し繰り返し私達に教科書を暗唱させた。耐えられないな、この頑固なおじいさん!その年の私の夢は文章を暗唱させない先生に来てほしいというものだった。

 やっと2004年になったな。担任はここに初めて来た学長だった。彼は私たちの国語や体育や歴史学科の担当になった。すっごーいと思っていた。しかし、本当に厳しい先生だった。毎週、やりきれないほどの宿題が出され、難しい作文を書かなければならなかったが、電力供給量が不足していたため、いつも停電してしまった。37度の蒸し暑い教室で汗がぽたぽたと垂れながらもよく頑張っていた。皆の毅然とした目付きや先生のびしょ濡れの服は一生忘れられないものになっている。その年の私の夢は、エアコンが設置された停電しない教室がほしいというものだった。

 2005年、私は民営の中学校を受験し、進学できた。授業料は毎年一万元になった。その年の私の夢は三年後、両親が期待するような重点高校に入りたいというものだった。

 2011年、北京の大学に入った。と同時に、小学校の友達は戸籍制限のために、四川省に帰り進学できなかった。その年の私の夢はなんと言っても大学時代を有効に過ごすということだった。

 2012年、リーダーとして、ボランティア活動の計画を立て、チームのメンバーを連れて北京の田舎へ行った。田舎の子供に英語を教えてあげた。子供たちは無邪気で、もっと多くのことを知りたいという気持ちがよくわかった。その年の私の夢は、なるべくその学生たちの学力を進歩させてやりたいというものだった。

 私は今までずっとラッキーな種だったと思っている。両親は教育を重視して、励ましてくれたり、高い授業料も構わず、良い教育資環境を用意してくれた。しかしながら、実は私のような種は少ないでしょう。この国では毎年200万人以上もの子供が貧しさのために退学している。半分ぐらいの出稼ぎ労働者の子供は公立の学校を受けられない。更には毎日川を歩いたり、山を登ったりして通学する学生さえいる。その一方で、都市では塾が多くなり、重点学校の入り口はますます高くなっている。

 種が必ずしも芽を出すとは言えない。苗も一本ずつ全てが木になるわけではない。でも日の光がなったら、水がなったら、たとえ一番良い種でも成長できないのではないだろうか。

 「天下の公平を求めるならば、教育の公平が肝要だ」有名な教育家陶行知はそういった。2013年の私の夢は、遠くない未来に、子供は誰でもいい学校へ進学できるようになることだ。種が一つずつ、生い茂る樹になるように。これは私の夢だ。私の「中国の夢」だ。

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