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「傷春悲秋」は中国の成語である。日本語に訳してみると、「春には感傷的になり、秋には物悲しくなる」。
秋になると、花が散る。これは自然の法則だから、誰も逆らうことができない。結末を知っていても、何もできなくて、ただ、それが避けて通れぬ運命だと認めざるを得ない。そのような無力な自分に対して、悲しい気持ちを持つのも当たりまえのことだ。
しかし、どうして万物がよみがえる春の季節にはまた感傷的になるのだろうか。もしかして私は古代中国の文人の敏感な心を受け継ぐのだろうか。万物がよみがえる景色を見て、自分がいつか、また、どこかでもう一度自分の人生の頂上に達することができるのかという問題を考え続け、ますます憂鬱になる。その憂鬱な感情を無駄遣いしないように詩歌を作り始める。中国の古代文人は大体そうやって文芸作品を作り出していたのだろう。
この間、高校時代に片思いしていた女の子に再会したという夢を見た。彼女は相変わらず綺麗で輝いて見えた。まるで、女神のような存在だった。目が覚めたあと、「何だ、夢か」と気づき、落ち込んでいた。二度と眠りに入ることができないため、ついでに、高校時代の自分のことを思い出した。そのときの自分はまさに「傷春悲秋」そのものだった。気持ちが変わりやすく、どのような無関係なことでも、悲しくなる結末だった。片思いの女の子に話しかけたが返事がない時、クラスメートと小さなことで喧嘩した時、試験で悪い点数を取った時。いわゆる学生時代のうまくいかない時すべて。
しかし、人生においてうまくいかないことがあるのはありふれたことである。悲しくなる必要も、憂鬱になる必要もない。勇気を出して、あらゆる方法を使って、それを乗り越えればいい。このような簡単な解決方法がどうして高校時代の自分には分からなかったのだろう。悲しくなる必要もないのに、わざと悲しいふりをして、中国の古代文人のように、憂鬱な感情を込めて、文章を作ったことがある。「消極的な言葉=カッコイイ言葉」という考えもよくしていた。
いま振り返ってみると、そのときの自分の心が弱かったと言うより、甘かったと言ったほうがもっと適切であろう。「かわいそうだから、人から同情してもらえるはず」という浅はかな発想は大人の世界では通じない。やはり、それは思春期独特の考えにすぎない。
大学に入ってから、あっという間に三年間経った。もはや「傷春悲秋」の時代ではなくなる。単に悲しくなるのは何も解決できないから。もちろん、悲しい気持ちをうまく利用すれば、文章を作ることができるが、それはあくまでも憂鬱のぶちまけなのだ。いい文章というのは、やはり作者自身の考えをうまく表して、また、読者たちに伝えることができるものだ。この点で見れば、「傷春悲秋」は何も生み出さない。それだけでなく、「傷春悲秋」という状態に慣れてしまうと、もう二度と困難と立ち向かうことができない。
だから、いまはもう悲しみに浸ることはしない。悲しくても我慢する。これは、成長そのものであろう。いまはちょうど春の季節だ。しかし、もう「傷春悲秋」の時代ではない。高校時代のその無力な自分、臆病な自分、デリケートな自分、やはり昔の記憶に残れば十分だ。いまの私は、これからの私は、悲しさを乗り越えて、前に進むのがよいだろう。
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