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緑に生い茂る大地、艶やかに咲き乱れる花。イメージのなかにある春とはだいたいそのようなものだろう。しかし、南国の春は一貫して短く、雨がよく降り、じめじめしている。春らしい春とは程遠い。
中国南方の雨は、雷が鳴るにわか雨ではなく、長期的に降り、全く止む気配を見せない。そのせいで、我々は外出を躊躇われ、家にこもっているうちに、春は過ぎ去っていく。我が身をこの世にいたずらに置きながらも、やはりそこには「光のどけき春」がたまらなく好きで、春の桜は「しづ心なく」ということを知りながらも、春めいた頃を望んでいる私がいる。
幸いなことに、今年の春は、珍しい晴れがあるおかげで、桜は昨年より盛んで、民謡通りで、「見渡す限り、霞か雲か」のような盛況を見た。ピンク色や白の小さい花は静かな湖の岸で木の細い枝に生まれて、ぐるりと咲いている。湖に映った桜花の倒影の色は少し濃い。湖の中で紫色と茜色の影が静かに映されて、幻こそあれ何だか別世界にある真実だと思われる。岸を歩いている間、さまざまな色の花と邂逅して、胸をときめかせた。
しかしながら、春に咲く桜の命は本当に短くて、風とともに散る花はその繊細さが現れる。花のしばしの命を悲しく嘆きたかったが、紫式部のような「もののあわれ」を描くことができない私は自分の感情にふさわしい言葉を思いつけなく、とうとう一言もコトバで表現できなかった。
静寂の極みの桜の木々の下で横になって、目を瞑って日の微光を享受した。あたかも花の一つに化身したようであった。見上げた桜の木の枝の隙間から、太陽の光が顔をのぞかせ、それから、清らかな風とともに桜の香りが漂って、花弁は回り、きれいな踊りを舞っている。空中で飛んでいる私は精一杯自分の美しさを見せて、頑張っている。桜花を見る人にとって、咲いた花が枝から土に落ちる時間はわずかな一瞬だが、花としての私にとってはまるで宇宙の永久のようだ。
夢の世界に入った私も桜花の一つになって、自分の生命の色を見せ、僅かな瞬間を頑張り、美しさも表したいという誇りがある。目を開いて、現実と夢を区別できないような感じがした。花見の人はいつも桜花を「惨めな短命だ」と嘆くが、「花」がどんなにすばらしい一生を暮らすのかさっぱり分からず、ばかばかしい「人」は、悲しくて人生は無常と思われる。しかし、春の花はそのように悲しむ時間はなく、一番美しい自分を表すような努力をしている。短い春の中に、短い命の色を表すのは花のすばらしくて価値がある生命だ。人はそのような花と比べると、精彩を失うかもしれない。
正直、人の命は花よりずっと長い。しかし、私たちは「時は金なり」という諺をどこかで忘れているようだ。ヒンズー教の中で、「人はただ神様の儚い夢」という言葉もあるのだが、もし人が、ただ神様の短い春のような夢ならば、人としての私は夢の世界で見たその小さい花のようだ。神様の生命は永遠だが、人は神様と比べると、拙く儚い線香花火のようなものだ。花さえ命の短さと繊細さを嘆く暇がない。人も人生の無常を嘆き続けない。ただ刹那の春の夢には人生を享受しながら、ちゃんと胸を張って力の限りたくましく頑張っていくことが一番大事だと思う。
桜の林内を散策しながら、春の香りを楽しんだ。綺麗極まりない春に、いろいろなことを悟り出した。その時、私は詩を書こうと思った。
「こんな夢を見た。桜に生まれ変われた私は、花の命と人の命を重ね、その儚さと短さは共に同じなのだと気づいた。そんな夢を見たあとで、死ねば諸共、某かに生まれ変われると思いつつ、ただ神の春のような儚い夢に帰ろう」。
私は静かに瞼を閉じた。
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