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寒山寺の鐘

2011-03-23 13:47:53     cri    

 張継の詩に詠まれた寒山寺の鐘は、唐代に鋳造されたものと考えられるが、失われて久しかった。

 明代の嘉靖年間に、本寂禅師によって2代目の鐘が鋳造され、鐘楼も建てられたが、この鐘も16世紀末葉から17世紀前半にかけて失われてしまった。

 従前より寒山寺では2つの鐘が用いられていた。ともに最後に寒山寺が再建された、約100年前の清朝末期のものである。ひとつは1906年に中国で製造された大きい鐘であり、もうひとつは、同じ頃に日本で鋳造されたものである。初代内閣総理大臣伊藤博文による以下のような銘文が鋳されている。

 "姑蘇寒山寺、歴劫年久、唐時鐘声、空於張継詩中伝耳。嘗聞寺鐘転入我邦、今失所在、山田寒山捜索尽力、而遂不能得焉。乃将新鋳一鐘齋往懸之。  伊藤博文"

 決して大きなものではないが、音色は清澄であると同時に荘厳さがあり、余韻が素晴らしいと言われていた。

 寒山寺の鐘楼(黄色い建物)と「聴鐘石」、奥の高い建物は宝塔

 原型となった唐朝時代の鐘は古い時期に日本に持ち去られたと信じている人(伊藤博文と康有為を含む)がおり、これについては、中国人や韓国人の間で論争となったことがある。実際、明治末年の当時から、鐘は倭寇が盗んで日本に持ち帰ったという話が現地にのこり、それに当惑した日本人も多かったようで、山田寒山という僧は、日本各地を訪ねて鐘を探したが見つからず、伊藤博文もまた、これを聞いて心配して部下に探させたが、やはり見つからなかったので、1905年、山田と伊藤が発起人となり、寄付を集めて梵鐘を鋳造することにしたものである。完成した鐘は唐風の銅鐘(青銅製乳頭鐘)で、1914年に寒山寺に寄贈された。この鐘は、現在、大雄宝殿の右側にある。

 鐘楼に懸けられている清の光緒32年(1906年)の大鐘は、当時の江蘇巡撫陳氏が寒山寺を修復した時に鋳造されたものであり、鐘の高さは1.3メートル、口径1.24メートル、重さ約2トンのものである。この鐘を撞くと、42秒間も響き続けるという。これが3代目の鐘とされる。

 4代目とされる鐘は、1986年に民豊鍋廠という工房で製作された鐘で、高さ2.25メートル、外周1.5メートル、重量2.5トン。梵鐘づくりの名工と呼ばれた李吉人が、北京に所在する大鐘寺の資料によって唐代の鐘を再現したものであった。

 2005年に寒山寺によって注文された5代目にあたる鐘は、武漢の工房で製造されて近年完成し、寒山寺に移送された。「古寒山寺」と大書され、法華経が鋳されており、特設された東屋のなかに安置されている。銅の純度が高く、重さ108トンにおよび、高さ8.5メートル、最大径5.2メートルの大型のものである。

 除夜の鐘

 寒山寺の鐘声はとても有名です。毎年の大晦日、あるいは元旦の夜、寒山寺では「鐘撞きの儀式」を行い、鐘を108回撞きます。「鐘声は人の煩悩を代表している。108回の鐘声を全部聞いたら、来年の悩みはすべて風に吹かれ去る」という伝説もあります。

 除夜の鐘を聞きながら新年を迎える行事は、1979年に藤尾昭が発起人となって始まりました。以後、12月31日には日本ばかりでなく、韓国をはじめとする各国の観光客や中国人も大勢参加するようになりました。

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