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鑑真と日本

2010-12-10 12:43:23     cri    
 743年、日本人僧の栄睿と普照は揚州に赴き、日本で仏教を広めるよう鑑真に要請しました。鑑真はこれを快諾し、航海の準備に入りました。彼の呼びかけに対し、21人の弟子が随行しましたが、1回目の航海は、政府の干渉を受け失敗に終わりました。

 2回目の航海では、軍艦を購入し、仏像や仏具、薬品、食料などを調達。弟子などの随行人員は85人となりました。しかし、中国大陸を離れてまもなく、嵐によって船が破損。帰港し修理せざるを得なくなりました。修理が終わり3回目の航海を試みましたが、沖合いで座礁し、またも失敗に終わりました。

 3度の失敗にもかかわらず、鑑真はあきらめませんでした。744年、彼は再び航海の準備に入りましたが、政府の反対により帰還。748年、61歳になった鑑真は楊州を出発し、4回目の航海を試みました。しかし、台風に遭い、中国南部・海南島に流されてしまいました。やっとのことで楊州に戻り、再び5回目の航海に出ましたが、これも失敗。この5回目の航海は損失も大きく、日本人僧の栄睿と鑑真の弟子である祥彦が前後して病死。鑑真自身も過労により両眼を失明してしまいました。

 5年の年月が流れ、66歳になった鑑真は、失明という困難にも負けず再度日本へ向かいます。753年10月19日、彼は楊州を離れ、12月20日、ついに日本の土を踏みました。そして、朝廷から庶民まで、人々の歓迎を受けたのです。日本朝廷は鑑真をねぎらい、授戒の権利をさずけるとともに、戒台寺を建立し彼にまかせました。756年には大僧都にも任命しています。こうした待遇は、かつてないほど厚いものでした。その後、鑑真は弟子たちとともに「唐律招提」を建立。現在日本では「唐招提寺」として親しまれています。763年5月、鑑真は76歳で円寂。日本で埋骨されました。

 鑑真は日本で10年間生活していますが、日本文化の発展や中日文化交流に大きく貢献しています。鑑真が日本へ来た頃、中国ではちょうど唐朝文化が繁栄していました。鑑真も来日の際、刺繍職人や画家、玉職人などを同行させ、絵画や刺繍、玉器、銅鏡などといった工芸美術の珍品や、大量の真筆法帖(ほうじょう)を持ち込みました。鑑真が伝えた中国の文化芸術は、日本で吸収され、天平文化に影響を与えました。

 天平文化の核心にあるのは仏教文化ですが、鑑真はこの仏教分野において、日本に対し最も貢献しています。仏教寺院の建設技術では、鑑真が中国流に建設した「唐招提寺」が、その後の日本における仏教建築の手本となっています。仏像製作でも、それまでの日本には銅鋳造や木彫の技術しかありませんでしたが、鑑真の来日後は大きく変わり、唐朝の仏像のような写実主義へと向かいます。また、乾漆像は天平芸術のなかで最も誇れる芸術品となりました。鑑真の死後に作られた鑑真像も乾漆像ですが、この製造技術は鑑真の弟子たちが伝えたものです。

 鑑真はまた、中国医学を日本に伝えています。自ら、光明皇太后の治療にもあたりました。両眼を失明していたものの、薬の知識は確かなものでした。

 鑑真は、日本での10年間を懸命に励み、中日人民の友好のために尽力し、中日文化交流史において大きな業績を残しました。1973年、当時の中国副総理・鄧小平が日本の唐招提寺を訪ねた際、寺の長老たちから「鑑真和尚座像を里帰りさせてはどうか」との申し出を受けました。1980年4月19日、鑑真座像は楊州で公開され、人々から熱烈な歓迎を受けたのです。

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