北京市から南東に150キロ離れた唐山市。この唐山市で1976年7月28日朝3時42分56秒にマグニチュード7.8の直下型地震が起き、24万人が犠牲となりました。地震で障害者となった人も3万人以上にのぼります。今回の北京パラリンピックで活躍した選手の中に唐山大地震で右足を失った車椅子テニス選手董福利さんがいました。
董福利さんは1971年生まれで、1993年にプロ選手になり、北京とアテネパラリンッピクの二回の大会に出場。北京パラリンピックでは女子シングルスとダブルスに出場し、いずれも大会のベスト8に入りました。董さんを取材するため、私が唐山市に到着したのは9月30日の夜9時30分。董さんは元気な笑顔で私を迎え、唐山市内を案内してくれました。ここで大地震が起こったことを忘れてしまうほど、美しい町でした。
唐山市で大地震が発生したのは、董さんが7才の時。父親が亡くなり、自身も右足を失いました。18歳の時、専門学校を卒業し、父親が勤めていた唐山市園林局に就職。義足を利用して、日常生活にはまったく不自由がなくなりました。ある日、家に帰る途中、董さんは車椅子を懸命にこいでいる人を見かけました。実はその人は河北省車椅子テニスチームのコーチでした。彼は董さんにテニスチームに参加するようすすめてくれました。
彼女は仕事を休んで、一人で河北省の省都石家庄に向かいました。彼女は本格的にテニスの練習を始めました。みんなに追いつこうと、昼も夜も一生懸命練習しました。その結果、彼女は中国国家車椅子テニスチームに選ばれました。翌年のFESPIC大会に、董さんは中国を代表して出場し、女子車椅子テニスダブルスの銀メダル、シングルスの銅メダルを獲得しました。その後も、四回連続で全国運動会のチャンピオンに輝き、さらに2004年のアテネパラリンピックでは、中国初の女子車椅子テニスの選手に選ばれました。
董さんにはもっと大きな夢があります。「中国の身体障害者事業に貢献したい。もっと多くの人達に車椅子テニスを知ってもらいたい。また、もっと多くの障害者の人達とスポーツで得た自信を分かち合いたい」その夢をかなえるため、彼女は2000年「唐山市テニストレーニングセンター」を開きました。健常者は有料ですが、障害者は無料で董さんから車椅子テニスを習うことができます。
北京パラリンピックに出場したことで董さんは中国障害者スポーツ事業の発展を感じました。「いろんな国の試合に参加したことがありますが、北京パラリンピックが一番すばらしかったです。ボランティアも、大会のバリアフリー施設も先進国よりレベルが高かった。特に、応援してくれた人々の笑顔や声援はとても印象的でした」
2012年にロンドンでパラリンピックが開かれる時、董さんは40歳。彼女はこのように意気込みを話してくれました。「ロンドンパラリンピックにも是非出場したいと思います。今回北京の大会で、先進国選手との差を改めて感じる一方で、自分にも大きな可能性があることを感じました。外国にも40歳を過ぎている選手がたくさんいますし、私もチャレンジしてみたいです」
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