曇崗の五窟は雲崗石窟を造営する幕を開ける、画期的な意味を持つ代表作です。
西暦470年代から490年代までの期間は、雲崗石窟造営の最盛期で、その時期の洞窟は10数箇所もあります。それまでの、洞窟を大きくして、像を高く作る手法から抜け出し、中国風建物の様式が現れ、彫刻内容が豊かになり、造形も整ってゴージャスなものになりました。中国化、世俗化の傾向が見えてきました。この変化の過程は中国の石窟発展史上、きわめて重要な意味を持っています。
第7窟と第8窟、第9窟と第10窟は、二組の統一構造の双子窟で、外観が類似し、内部が繋がっており、前と後ろにそれぞれ一つの洞窟があり、配置が多様です。
第8窟にある護法神で、三つの頭八本の手を持って牛に乗るのは摩醯首羅天(ますしゅらてん)、五つの頭六本の手を持って鳥に乗るのは鳩摩羅天(くまらてん)です。北魏時代の職人はこれらインドの神様を奇妙な造形で表現しています。二つの石像は雲崗石とても貴重なもので、中国石窟芸術界でも珍しい傑作でもあります。
色彩に富んだ第9窟から第13窟は「五華洞」とも呼ばれています。これらの洞窟は設計が豪華で、人物像が変化に富み、装飾の特徴が鮮明で、人々に「太和スタイル」と呼ばれています。第11窟の壁の上にある碑文には、「太和七年」と書かれ、雲崗石窟に現存する題辞の中で最も早く、最も長いものです。「太和七年」は西暦484年なので、雲崗石窟が1500年あまりの歴史を持つことが証明できます。
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